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最近考えていること6本

ひとつひとつまとまった文章に構成していると時間がかかるので、最近考えていたことをただ順番にだらだら書いていく。

タバコの次はアルコール

  • タバコはだいぶ社会的地位が低くなって、以前はある意味暴力的なほど、非喫煙者への無関心の度合いが高かった状況が徐々に解消されてきたけれど、同じようなことが今後はアルコール飲料に対しても生じてくるのでは、と想像している。
  • タバコの被害や影響と、アルコール飲料におけるそれとはまたちょっと性質が違うとも思うので、そのまま同様にスライドさせて考えることはできないだろうけど、とはいえ現在あるような、飲酒者から非飲酒者への無自覚なある種の傲慢さというか、無関心さというか、鈍感さとも言える状況は、自然にというか必然的にというか、解消されていくだろう、というかそうならざるを得ないだろう、と思ってる。
  • 僕自身は随分飲む方だと思うけど、それでも飲んでこうむるデメリットというのはそれなりに感じるし、飲まない場合の「負担の少なさ」みたいなものがあるのは間違いないと思われ、「飲まなくてもいい世界」の存在に気づいた人々はやがてそちらをメインにしていくのではないか、そしてそれは「吸わなくていいなら吸わない方を選ぶ」というタバコ界隈で生じた現象に近いのでは、と思っている。

有名な人や企業が叩かれる理由

  • 有名人や有名企業(団体・組織)がTwitterなどでバリバリ叩かれるのはなぜか? と考えると、それは彼ら有名な人たちがモノ(=人間ではない何か)として見られているからだろうと思ってる。
  • 言い換えると、自分の友達や尊敬する人がその対象だったら、誰もそんなことは言わない。そうではなく、相手は自分とは別の何か、少なくとも人間ではない何かだから、言い返してくるわけがないし、言い返してきたところで「別世界」のモノたちだからわかり合えるわけもないし、という前提があってそういう態度になってしまうのだろう、と。
  • これはよく「有名税」みたいな言葉とともに語れられるところでもあるが、「有名税」、ひどい言葉である。人間が人間を傷つける、ということを正当化する概念になっている。
  • ただし同時に、じゃあそういう、「知らない人だから叩く」というのが悪いのかと言ったら、まあ悪いのだけど、悪いと言って何かが解決するとも思えない。むしろそれは自然なこととすら思われ、自分の知らないすべての人のことをつねに気づかって生きていたら忙しくて仕方ない。関わりのない人のことは「無い」ものとして扱うから日常を過ごすことができる、とは言える。
  • 自分から遠く離れた、想像の及ばない誰かは「人間ではないモノ」に見える。それは仕方ない。というか、「私はこの人のことを理解してる!」と思っても実際は全然わかってない、ということもまた普通にあるし。しかしそれでも、やはり相手は「モノではない人間」だから、自分がバシバシ叩いていることにふと気づいたら、そのことを思い出して手をとめたい。

政治家に憧れる社会

  • 上の話にもつながるが、「叩いていい有名人」と思われる筆頭といえば、政治家だろう。
  • なぜ人々がこうも政治家を憎むのか、理解しがたい。
  • 中には、自分が支持する政党や政治家を応援するような状況もあるが、それはそれでまた見方によっては宗教っぽいというか、信者が教祖を崇めるような、ある意味思考停止的な、もう最初から結論だけは決まっていて、その他の肯定する理由は結局すべて後付なのでは、みたいな意味で、政治家を思考停止的に批判する態度と同等であるようにも感じる。
  • 人々が政治家を馬鹿にしたり、憎んだり、とにかく攻撃し続けるような社会で、すぐれた人が政治家になろうとするだろうか? という危惧がある。
  • 子供に将来の夢を聞いて、こんなにも毎日人々から糾弾され続ける職業を挙げるとは思えないし、挙げたところで賛成することも難しい。
  • 政治と金、とはよく言うが、こんなにも「政治家とは悪どい人間がなるもので、いつも利権をむさぼることしか考えてない」みたいなイメージが定着してしまったのは、そしてそれがいつまでも更新されないままなのはなぜだろう?
  • たしかに政治家の一部が汚職を始めとする様々な犯罪を犯してきたことは事実だが、それは「政治家だから」やったことを意味しない。世の中の犯罪を犯す人間の大半は政治家ではないのだから、「政治家=悪」みたいな図式からは早々に逃れるべきだろう。
  • 政治家はひとつの職業であって、職業である以上、それに見合う対価をもらうのは当然のことだ。政治家は国民の奴隷ではないし、金持ちが趣味でやることでもない。
  • 誰かが職業として国を代表する役割を受け持ち、国内外の多くの人間に影響する作業をするのは少なくとも現代社会では必要なことで、国中のすぐれた人がその役割を目指せるようでなければならない。一部のちょっと変わった人だけが立候補するような状態では困る。
  • とりあえず政治家を軽視する態度はやめるべきである。政治家も人間だから、叩かれ続ければそれを前提にした態度を取るようになる。まずは人間扱いするべきだ。人間であれば当然失敗も成功もするだろうし、その一つ一つに意見するのは良いだろうが、彼らは「叩かれるための人間」ではない。
  • 政治家、楽しそうだなあ、大変そうだけど充実してるっぽいしカッコイイ。と思われるような職業であってほしい。

中川淳一郎著『節約する人に貧しい人はいない。』感想

  • 少し前に中川淳一郎さんの『 節約する人に貧しい人はいない。』という本をKindleで読んだが、面白かった。
  • ぼくは自分を世間知らずな人間だと前々から思っていたが、これを読んであらためてそう思った。いくつかの仕事の報酬や給料の相場などが折々垣間見えて、社会にはこんな状況があるのだなあ、と社会勉強になるようなところがあった。
  • 印象的だったのは、「こういう人間には仕事を頼みたくない」とか、その裏返しで「こういう相手だとまた頼みたくなる」みたいな話があって、前者は「めんどくさい人」。
  • 実際に中川さんがそう表現しているわけではなかった気もするが、自分ではそんな感じで解釈した。
  • めんどくさい人とは、たとえばギャラの振込みが一日遅れたときに責め立てるように督促してくる、とか。論理的にはその督促自体はまったく正しいが、その言い方をして誰が得をするのか? みたいな話。
  • ぼくは基本的にその「めんどくさい」と思われる側の人間だなあ、とこれも前々から感じてはいたが、あらためてそう思った。そして、「そんなことをして誰の得になる?」という考え方も非常に腑に落ちる。
  • そういった気質や傾向をすぐに変えることはできないかもしれないが、なるべく自覚して改善したいと思った。これはかなり「読んで良かった」ことのひとつ。
  • その他、内容が大変濃くてよかった。正直、このような本(というか)はさらっとハウツー的なことを並べて軽めに読者の気分をアップさせて終わり、というイメージを持っていたが、著者の「なんとしても値段に見合うサービスを提供して、読者に得した気分を味わって帰ってもらいたい」みたいな強いサービス精神を感じた。
  • けっこう高い本だと思ったけど(今見るとKindle版で950円)、それに見合う内容だと感じた。
  • おもに後半だったと思うが、著者自身の履歴や、今後の身の振り方について考えを書いているところがけっこう内面吐露みたいな雰囲気になっていて、そのあり方もなんだか太宰治ファンが「これをわかるのは自分だけ!」と思うような、読者に共犯感覚を抱かせるところがあるようで、少なくとも自分はそんな感じで面白く読めた。
  • たしか中川さんはぼくより2才ぐらい年上なのだけど、子供の頃の話などはとくに同世代感があり、またぼくが大学の頃から数年住んでいた地域の近くに中川さんもかつて住んでいたり、共通するところがいくつかあって、それもまた面白く読めた理由だったろう。
  • それから、中川さんは大学は一橋、就職は博報堂、ということで、そこからわかるのは「勉強ができる」、というより勉強を「した」ということ。そして結果を出した(合格や入社など)。
  • よく、勉強ができるとか試験の点数がいいとか、あるいはいい大学や企業に入ったりした人に対して、あたかもそれが先天的な能力であって、「勉強ができるからって(いい会社に入ったからって)威張るなよ」みたいな対し方をする人がいるけど、勉強ができるというのはその人が勉強をしたからできるようになったのであって、同時に勉強をできないのは先天的な理由ではなく勉強をしていない(「しない」ことを選んだ)からである。
  • たしかに、中には何を勉強してもちょっとやるだけですぐに理解できる・成果を出せる、という人もいるかもしれないし、そもそも勉強自体が好き、みたいな感じで向き不向きが出る部分もあるかもしれないが、それでも大半の「勉強ができる人」がそれだけの勉強をしたのであろうことは想像にかたくなく、それを軽んじていい理由などないだろう。
  • 僕自身はなかなかそういった勉強というか、学習というか、努力というか、そういうのが身につかないというか、集中できないままどうでもいいことに逃避してしまう傾向があるので、このように努力している人はすごいと思う。
  • もう一つ、読みながら感じたのは、とにかく「体力、あるな〜」ということで、日々動き回っている&そのことに抵抗がないように見えるそのあり方にただ感心する。ぼくは基本引きこもりというかダウナーというか、放っておくとずっとひとつの場所に沈み込んで何か好きなことをずっとしている……みたいになりがちなので、そのタフさがもたらす価値の大きさも読みながら幾度となく感じた。

プログラミングでハマった(失敗した)経験を書く理由

  • ここ1〜2年、趣味のプログラミングの成果というか、それに至らなくてもハマった/試行錯誤した経過などをブログに書くことが多い。
  • the code to rock
  • 短期スパンで考えると、こんな内容がいったい誰の役に立つのか、少なくとも技術的な「正解」が書かれているわけではないから、これを参考にするエンジニアがいるとも思えないし、かといってプログラミング入門者が読むにしては、ちょっと内容が偏っているというか、Vimのこんな機能をこんなふうにカスタマイズしました、なんて書いているのを参考にしたい初心者がいるとも思いづらいのだけど、それでも書いてるのは、第一には後から自分でその内容を参考にできる、つまりどの作業のどの部分でハマって、それがどう解消されたのか、ということが書かれているので、同じ人間である以上同じことに同じ理由でハマり返る(という表現は聞いたことがないが、そうとしか言えない)ことも多く、そのようなときにその自分用メモみたいな記事が役に立つ。ああ、こんなふうに解消したのか、と。
  • もう一つ理由があって、それは「稀少」だと思うから。
  • 思うに、プログラミングの初心者というのはその大半が「文章を書く」という経験もあまりなくて、言い換えればアウトプットの経験が少ないというか、あるいはそういう入門初期というのは様々な知識が不安定・不確定だから、「間違えたことを書いてしまう」という可能性も高く、だからそういう危険をなるべく避けたいと思うのかもしれないが、どうもやはりそのぐらいのレベルの時期に書かれる文章というのは少なく、しかしそれがその後の習熟度や、自信が増すにつれだんだんアウトプットの量も増えていく、という状況があるように思える。
  • 中には、プログラミング習得日記。みたいな感じで書かれるブログ記事などもあるのだけど、そういうものの多くはIT企業の新入社員とか、学生が、会社や研究室の先輩や同僚などに向けてログや日報のように淡々と記録しているものだったりして、これはこれで他人が見ても役立つ面はあるものの、とはいえやはり、その人の人生が忙しくなったせいなのか、途中でパタッと終わってしまっているような場合も多く、そうなると特定の技術に関するリファレンス(参考情報)になることはあっても、それ以上の何か、たとえばその人自身の考え方や人生の一片に触れられるような感覚というのがあまりない。
  • ぼくはもうすぐ41才になるけど、これまでブログはもちろん、業務における編集やライティング、あるいはメールやチャットも含めればかなりの量、「考えていることを文章化する」ということをやってきたので、そうしたアウトプット作業に対するハードルが低く、一方でプログラミングに関してはまったくのド素人の状態からスタートしたものだから、ひと言で言うと「文章を書けるプログラミング初心者」みたいな、結果的になかなかレアな立場なのではないかと思っている。
  • このような存在というか、スキルセット(?)を持つ人はきっと今後はそれなりに増えていくと思うけど、今はそんなにいないだろう。それがべつにぼくのアドバンテージである、と思っているのではなく、しかし「ある程度文章を書ける(書くことに抵抗がない)状態でありながらプログラミングの初心者でもある」という人が少なくとも今の世の中にはまだあまりいないのなら、そういう人間が文章を残しておくことには、それなりの価値があるだろう、と思って書いている。

学習とは定員の少ない部屋に入室できる人を厳選すること

  • 美大に通っていた頃、ぼくが所属していたクラスの教授が言ったことで今でも覚えているのは、画家っていうのはいつでもすぐに描ける状態にしておくのが大事なんだよ、ということ。
  • 具体的には、油絵ならすぐに描けるキャンバスや、筆や絵の具やテレピンやらがいつでも用意されているということ。ドローイングなら白紙とペンがすぐ手に取れるところにあるように。
  • 画家でなくても、ひとつの定まった仕事をしていると、最初の頃はそういった「準備」的な、環境を整えるまでが大変ではあるけど、ある程度軌道に乗るとあとは前日との差分でどんどん作業をしていけるから、より本質的な作業に集中できるという利点がある。
  • それはいつでも手の届くところに筆や絵の具や溶き油が置いてある、というのと同じで、道具や資材や参考資料を探すためにいちいち長い時間をかけていたら仕事にならない。
  • それと同様に、プログラミングでも英語でも簿記でも、何かを学習するというのは、そうやって「手の届くところに道具や資料を集めていく」ということのようだと感じる。
  • 英語で「この単語、意味はなんだっけ?」といちいち調べないと意味を取れない状態というのは、手の届く場所にその単語がない、ということ。いつでもすぐにその意味が頭に浮かばないと、話されている内容についていけない。
  • それは狭い部屋の中にすべての資料が揃っている状態。人間にたとえると、同室の中にすべての必要なメンバーが揃っている状態。メンバーAの知識が必要なときに、Aがその部屋にいなくて、外や別室へAをいちいち探しに行く、という状況をなるべく避けなければいけない。
  • しかしその「部屋」は広くない。数人入れば満室になってしまう。
  • 人間に記憶できることは限られている。何かを覚えれば、そのぶん(かどうかはわからないが)覚えていたことを忘れる。または新たに覚えるべきことを覚えられない。
  • 覚えられる量は限られていて、つまり「すぐに思い出せること」が限られている、ということ。そして何かを習得するということは、「必要なことをすぐ思い出せる」ということ。
  • すぐに思い出せる、すぐに手の届く場所に、何を置くか。その厳選を行うことが学習するということ。それに集中することが肝要。
  • じつのところ、そのような「学習すること」それ自体は、さほど難しいことではないはず。しかし、ちょっと息をついたついでにどんどん別のことをしてしまうのが人間をつねにおびやかす甘い罠。部屋に入れるメンバーは限られているのに、関係ないメンバーを入れてしまえば、関係あるメンバーは部屋から押し出される。そして必要な時にはまたわざわざ呼びに出なければいけない。効率が悪い。
  • 甘い罠にそそのかされて、つい別のことをやってしまう、ということが結果的に新たなスキルの習得や、新たな人とのつながりが生まれるきっかけになることも少なくないが、そのことと、元々学習していたことが身につかなくなることとは矛盾なく両立する。つまり勉強しなければそれを習得することはできない。

『ふし日記』感想

土屋遊(あそび)さんといえば、Webサイト「Weekly Teinou 蜂 Woman」の人である。

そしてまた、「デイリーポータルZ」のライターのお一人でもある。

最近だと(最近でもないが)、この記事が印象的だった。
portal.nifty.com

関係ないけど、デイリーポータルZではこれもヒット! 泣ける!
portal.nifty.com

広告記事の金字塔だなあ〜……。

閑話休題。(いきなり)

その土屋さんが、『ふし日記』という本を出していたのは前から知っていたが、「再販することになったら告知します」という、読みたくても読めない状態が続いていた。

メールで予約しておけば、再販時に連絡をもらえるということだったが、ややシリアスな内容のようだったから、「あなたの書いたシリアスな話に興味があります」と赤裸々に伝えるような感じもあり、ちょっとそのまま様子を見ていた。(様子というか)

ぼくは土屋さんのブログをRSS購読しているので、大半の更新をキャッチしているが、つい最近、その再販が開始されたという情報が出たので、それでようやく購入に至った。

「日記」というぐらいで、日記形式で徒然に文章は進んでいく。

まだすべて読み終えたわけではないが、思ったのは、「こんなに文章らしい文章を読んだのは、ひさしぶりだなあ」ということだった。

「文章らしい文章」というのは、簡単に言い直すと、文学ということになる。
土屋さんが文学のつもりで書いているかはわからないし、そう言われてどう感じるかもわからないが、ぼくにとってはこういう文章はそれになる。

文学だから良いとか、良くないとかいうことでもなく、ぼくがそのように思う文章には共通することがひとつあって、それは「紋切り型から逃げ続ける」ということだ。

多くの「商品」としての文章において、読みながら、途中で「これは……もういいや」と、飽きてしまうのは、その表現の中に紋切り型、つまり「よく目にする表現」がたびたび使われているときである。

突き詰めて考えれば、言葉というのはつねに「誰かがかつて言ったこと」を使い回しているわけで、完全に特殊でオリジナルな表現をされても、その意味を理解することはできなくなるだろうけど、それでもちょっとウットリするような、あるいはカッコつけるような表現が、「ああ……それ知ってる。もう見飽きてる」というものだったりすると、この著者の世界はどうやら狭く、読者である自分に新たな知見や景色を見せてくれるものではなさそうだ、と思ってしまう。

文章を書くことに意識的な人は(という表現もわかりづらいが)、それをなるべく避けようとする。

というか、元々頭の中にあるのは言葉ではない「何か」だから、それを言葉に変えていく過程で、より厳密にその「頭の中にある、言葉ではない何か」を言語化しようと思えば、オリジナルな表現になることは避けられない。

しかし、その過程はあまりに面倒で、煩雑で、達成できるという保証もなく、試みに敗れれば惨めな気持ちにもなるから、普通はそこまでする前に、大体の、あり合わせの、誰もがよく使う表現を多用して終わらせて(放り出して)しまう。

たとえてみると、100種類のメニューが並ぶ弁当屋の店頭で、今日の昼食をどれにするか、完全に気が済むまで選び続けるのが本当の「文章を書く」という作業で、逆に「今日のオススメ」として提示されたそれを「とりあえずこれでいい」と、こだわりなく選ぶのが「紋切り型の表現を使う」ということになる。

(とはいえ、実際の弁当屋ではぼくも「オススメ」の方を取るが。弁当屋にとって都合の良い商品のほうが美味しいだろうと感じるから。上のはあくまでたとえ話)

「ふし日記」の文章は、文庫ぐらいの小さな判型で、1日分の出来事がせいぜい1〜2ページでつづられていく。
分量でいうと、Twitterよりは多いけどブログよりは少ない(か同じぐらい)といった程度でひとかたまり。

だから、読みやすい。
難しい言葉も出てこないし、ポップな雰囲気もある。

しかし全編を流れるシリアスさや、叙情性があり、さらにしかし、それに飲み込まれるわけでもなく、ドライな笑いを誘うような、あるいは自分のことを他人のように眺める離れた視点もある。

それが、他の文章にはない独特な軽さを作ってもいる。

「ハイ、ここで泣いて〜」「ここで笑って〜」みたいな、読者を操作するような意図が感じられず、ぼくはその世界を頭から終わりに向かって、ただ道をとぼとぼ歩いていくように、辿っていける。

その道の途中には様々な店や風景があって(さっきの弁当屋もあるだろう)、そこで展開される一つ一つの出来事を、見たり見なかったりしながら通りすぎていく。そういうことを可能にしている。

プツ、プツ、とフラグメンタルに出来事は語られながら、しかしその全体はひとつながりの時間の上に乗っている。

だから、読みかけのところから読み始めると、すぐにその世界に戻れるし、その日付が終わったところですんなり本を閉じることもできる。

たぶん、長時間の移動のときなどに持ち歩いて、電車で読み継いだりするのにもいいかもしれない。
(ぼくはあまりそういう機会はないが)

上記の再販告知のブログ記事では、同書の感想をいろいろ読めるけど、その中でよく合わせて紹介される本で、植本一子さんの『かなわない』というものがあって、ぼくはまだそれを読んでいないけど、著者の経歴から想像するに、きっとその本も、「紋切り型の反対側」にあるのだろう。

最初に『ふし日記』のことを知ったとき、なぜそれに惹かれたのかと考えると、「Weekly Teinou 蜂 Woman」の土屋さんのキャラクターと、本書の概要で示されるトーンとのギャップが大きく感じられたからで、でもこうして実際に読んでみると、あまり無理なく、その二つがつながってくる。

思い返せば、ぼくが「Weekly Teinou 蜂 Woman」を知ったきっかけは、大谷能生さんと出したこの本の、

元になった渋谷のイベントで、ばるぼらさんが同サイトを紹介していたからで、この本はイベントを書籍化したものだから(ぼくは共編・共著)、当然その内容も載せることになって、その編集時に「どんなサイトなんだろ……」と思って調べたのが最初だったはずだ。

世の中には、比べようもなくセンスのある人と、そうでもない人がいて、その前者を見るたびに打ちのめされるような気持ちになるが、この人もその一人だなあ、と、べつにその時にはそこまで自分の中で言語化していたわけではないが、今思えばそのような感想を持った。

普段このブログを読んで、面白いと思っているような人だったら、けっこう好みに合う部分もあるかもしれないので、もし上の話を読んで興味を持ったら、以下へどうぞ。
bonkyunbon.stores.jp

人間の価値をソートする

同い年か自分より年下の誰かが、自分よりもいわゆる「成功」している姿を目にすると、それを認めたくないような、悔しいような気持ちになる。
これを人は「嫉妬」と呼ぶだろう。

不思議なことに、自分より年上の人がそうなっても、とくにそういう感情は湧かないか、湧きづらい。

思うに、人は知らず知らず、自分と他人とをつねに一つの観点からソート(順位付け)している。

しかしそれは同時に、全人類を対象としたソートではなく、一定のグループを対象に行っていて、そのグループに含まれているのが、同年代かそれより下の世代ということなのではないか、と、自分の体のうちに発生する反応を省みながら考えている。

単純な話、それは小学生、いやそれ以前の年齢の頃から始まっていた、同い年どうしで限られたハコ(教室)の中に押し込められて、その中で1番だ、7番だ、いやビリだ、と順位付けされ続けてきたことが、体や感覚に染み付いてしまったということではないか、と思っている。

それが良いとか、悪いとかいうのはもう意味のないことで、それはただ、そこに「ある」。
少なくともそのように育てられ、生きてきた以上、ほとんど「重力」のように、逃れられない前提としてそこにある。

自分と同じグループにいると思える誰かが、自分より「成功」しているところを見ると、その対象は自分より「上」の順位に入り込み、そのぶん、自分の順位が下がる。

実際にはもちろん、誰かが明確にそのように言ったり、決めたりしているわけではないが、頭の中のどこかで、そういうイメージが発生している。

before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
 
after:
537位 知らない誰かA
538位 成功した誰か ←突然自分の上に挿入される
539位 自分 ←その影響でランクダウン
540位 知らない誰かB

嫉妬の構造とは、たぶんこういうことではないか、と考えている。

成功したように見える誰かを、あるいはそうでなくても自分以外の誰かを、貶めて、足を引っ張って、その地位を失墜させようとする衝動が人にはある。

それもまた、そうしたソートする感覚の作用であって、自分より「下」に誰かが入り込めば、そのぶん自分の順位が上がる、という感覚になりやすい。

before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
 
after:
537位 自分 ←それまで上にいたAが下に入ったぶん持ち上がる
538位 知らない誰かA ←ランクダウン
539位 知らない誰かB

すでに小学校のテストの時間は終わり、定員の決まった大学入試や入社試験も過ぎたはずの大人でも、この思考から逃れることはなかなかできないようだ。

前述のように、それはもう良いとか悪いとか表現する問題ではなく、いくら逃れようとしても逃れられない前提としてそこにある。

限られた食料を、それに見合う以上の数の人々が奪い合えば、飢える人は必ず出る。
とれる人間ととれない人間とがいたら、とれるほうに入りたいと思うのは自然なことだ。

しかし現実の世界では、多くの場面において、そのように人々が互いの順位を意識しなければならない状況はそれほどないはずで、そのことを意識できれば、多少は気が楽になることもあるかもしれない。

嫉妬の感情に飲み込まれる、みたいなことは、日々自然に発生してくる体の垢みたいなもので、「私はもうそれについて一度深く考えたから大丈夫」ということにはならないと思う。

気がつけば体を覆い尽くそうとするそれを、定期的に洗ってやらなければならない。

失敗を定義する

失敗を恐れるな、という言い回しがあって、まったくその通りだと思うが、しかし表現の仕方として、それをAさんがBさんに言いたい、というときに、Aさんの言いたいそれがBさんに適切に伝わるかと言うと、ちょっと意図がズレて届いてしまうのではないか、という感覚を持っていた。

僕が誰かにそのようなことを言いたいと思ったら、どう言うだろうか。
たぶん、「失敗するのはイヤなことだけど、それをしないと欲しいものは手に入らないから、イヤでも失敗を経由して欲しいものを手に入れてください」みたいな感じになるだろうか。

「失敗を恐れずに**をやれ」という言い方をした場合、誤解の余地があると思うのは、とりあえずトライをしたときに、「失敗をしない可能性もある」という風に伝わる可能性がある点だ。
「とりあえずやってみれば、失敗しない可能性もあるんだから、やってみなよ」という言い方になると、ちょっと本質(本当に伝えたいこと)を外しているような気がする。

勧めたいのは、「失敗しないこと」ではなく、「失敗するかしないかはどっちでもよくて、その先にある欲しいものを手に入れること」なわけだけど、「失敗しない可能性もあるよ」という要素を含めてしまうと、結局関心が「失敗するのか、しないのか」というほうに移ってしまいそうな気がする。

そのように関心や目的をブレさせないためには、むしろ「失敗は、する」という前提にしてしまったほうがいいのでは、ということで、まあ僕なら「失敗しながらやってみよう」みたいな感じになるのかなと。

何かをやってみる前に躊躇するというか、失敗を恐れるような状況というのは、たとえてみると、ススだらけの狭い道を抜けて、向こう側へ行くようなものだ。
その道を通ったら服や髪の毛が汚れることはわかりきっていて、入るのは躊躇するし、場合によっては「今日はやめておこう」とか思うかもしれないが、そのデメリットを受け入れさえすれば、希望した「向こう側」へ行くこともできる。

ようは、そうした痛みやイヤな感じを我慢してでも欲しいものを取りにいく、その諦めない感じを伝えられれば良いわけで、しかし「失敗を恐れるな」だと、「失敗するか/しないか」とか「それを恐れるか/恐れないか」ということに関心のフォーカスが絞られてしまって、無駄がある。

何かを手に入れるためには、失敗による痛みやイヤな感じをこうむることはほとんど不可避なので、それは一つの必要条件として受け入れなさい、みたいな言い方にしたほうがいろいろ効率がいい気がする。

数秒で生じる衝撃的な違和感

昨夜、NHKの震災関連番組を見ていたら、糸井重里さんと森公美子さんとはるな愛さんがゲストで出ていたのだけど、冒頭のゲスト紹介で、なぜか進行役の女性アナウンサーが、糸井さんとはるなさんは紹介するのだけど、その二人に挟まれた森公美子さんだけスルーというか無視して、「・・え!?」という感じになった。

あまりにも自然に、しかしあり得ない進行になっていて、どう考えても、というか普通に考えたら、先に森さん以外の二人を紹介する必然性というか理由を、その直後に明かすというか、「・・そして森さん、」みたいにすぐ個別に話しかけるのかと思いきや(それはそれで若干奇妙だが)、そのままVTRに行ってしまってここで本格的に驚いた。

元々の番組進行上の予定どおりだったのか、ハプニング的な軽微なミスだったのかわからないが(テーマが大きいだけに緊張していたとか)、もし予定外のことだったら、その女性アナウンサーの隣には同じくNHKの男性アナウンサーも居たので、せめてその人突っ込んでやれよ、という感じだが、とはいえ前記のとおりあまりにも自然に、かつ即VTRに入ってしまったので、逆にというかやはりというか、常識的な判断が表出する間もなかった、ということではあるかもしれない。

本当はその番組を見続けるつもりはあまりなかったのだけど、そのことが気になってしまい、番組の演出なのか、それともミスだったのか、後者であればVTR明けに、説明というか簡単なお詫びというか言及があるだろうと思って、それほど短いわけでもないそのVTRを見続けて、終わったが、やはりというか、なんとというか、何も説明はなかった。

その後の糸井さんのVTRに対するコメントも大変衝撃的で、なんて勇気のある人だろうと深く感心したのだけど、話が複雑になるのでここでは触れない。

テレビの収録現場というのは何度か立ち会わせてもらったことがあるけれど、その経験から言っても、スタッフや出演者の間では取り交わされている同意事項というか、共通認識のすべてが視聴者に示されるわけではない、ということはわかる。
わかるし、もし想定外のミスだったとしても、「まあ、とりあえず何事もなかったように進行しておきましょう」とか、VTRの放送中にスタジオでは何らかのやり取り(当人へのお詫びなど)があったのかもしれないが、見ていてその違和感があまりに大きく、その後の内容がまともに頭に入ってこない。

「うわー、なんも説明ないわ・・まじで? しかも何事もなかったかのように森さんに話振ってるわ・・」とか思っていた。

その辺りでチャンネルを変えてしまったので、その後なんらか言及があったのかもしれないが、やはりせめてVTR明けに何か言うべきだったのでは、とは思った。視聴者の視点というものが欠けている。
あるいは、僕がぼーっと見ていただけで、本当は糸井さんとはるなさんの間に森さんも紹介されていたのだろうか?(その可能性もある)

ただ、このようなことは震災を振り返る番組だったからこそ生じたのかな、という気もしている。
普通だったら、「おいおい、森さんの紹介がないよ!」とか、ゲスト側からも突っ込むこともできるかもしれないが(立ち上がって、芸人のように)、さすがにちょっと不謹慎というか、あまりそういうことはしづらい雰囲気というのがどうしてもある。

震災のことを扱う番組というのは、毎日のニュースや衣食住的なルーティンとして行うものではなく、言い換えれば多くの人が慣れないままやっているわけで、それで想定外のことに対して適切な対応を取れなかったということではあるかもしれない。
それはまた、震災を取り巻く多くの行動がそうなってしまった、そうなりがちであった、ということを結果的に象徴しているのかもしれないが。