土屋遊(あそび)さんといえば、Webサイト「Weekly Teinou 蜂 Woman」の人である。
そしてまた、「デイリーポータルZ」のライターのお一人でもある。
最近だと(最近でもないが)、この記事が印象的だった。
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関係ないけど、デイリーポータルZではこれもヒット! 泣ける!
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広告記事の金字塔だなあ〜……。
閑話休題。(いきなり)
その土屋さんが、『ふし日記』という本を出していたのは前から知っていたが、「再販することになったら告知します」という、読みたくても読めない状態が続いていた。
メールで予約しておけば、再販時に連絡をもらえるということだったが、ややシリアスな内容のようだったから、「あなたの書いたシリアスな話に興味があります」と赤裸々に伝えるような感じもあり、ちょっとそのまま様子を見ていた。(様子というか)
ぼくは土屋さんのブログをRSS購読しているので、大半の更新をキャッチしているが、つい最近、その再販が開始されたという情報が出たので、それでようやく購入に至った。
「日記」というぐらいで、日記形式で徒然に文章は進んでいく。
まだすべて読み終えたわけではないが、思ったのは、「こんなに文章らしい文章を読んだのは、ひさしぶりだなあ」ということだった。
「文章らしい文章」というのは、簡単に言い直すと、文学ということになる。
土屋さんが文学のつもりで書いているかはわからないし、そう言われてどう感じるかもわからないが、ぼくにとってはこういう文章はそれになる。
文学だから良いとか、良くないとかいうことでもなく、ぼくがそのように思う文章には共通することがひとつあって、それは「紋切り型から逃げ続ける」ということだ。
多くの「商品」としての文章において、読みながら、途中で「これは……もういいや」と、飽きてしまうのは、その表現の中に紋切り型、つまり「よく目にする表現」がたびたび使われているときである。
突き詰めて考えれば、言葉というのはつねに「誰かがかつて言ったこと」を使い回しているわけで、完全に特殊でオリジナルな表現をされても、その意味を理解することはできなくなるだろうけど、それでもちょっとウットリするような、あるいはカッコつけるような表現が、「ああ……それ知ってる。もう見飽きてる」というものだったりすると、この著者の世界はどうやら狭く、読者である自分に新たな知見や景色を見せてくれるものではなさそうだ、と思ってしまう。
文章を書くことに意識的な人は(という表現もわかりづらいが)、それをなるべく避けようとする。
というか、元々頭の中にあるのは言葉ではない「何か」だから、それを言葉に変えていく過程で、より厳密にその「頭の中にある、言葉ではない何か」を言語化しようと思えば、オリジナルな表現になることは避けられない。
しかし、その過程はあまりに面倒で、煩雑で、達成できるという保証もなく、試みに敗れれば惨めな気持ちにもなるから、普通はそこまでする前に、大体の、あり合わせの、誰もがよく使う表現を多用して終わらせて(放り出して)しまう。
たとえてみると、100種類のメニューが並ぶ弁当屋の店頭で、今日の昼食をどれにするか、完全に気が済むまで選び続けるのが本当の「文章を書く」という作業で、逆に「今日のオススメ」として提示されたそれを「とりあえずこれでいい」と、こだわりなく選ぶのが「紋切り型の表現を使う」ということになる。
(とはいえ、実際の弁当屋ではぼくも「オススメ」の方を取るが。弁当屋にとって都合の良い商品のほうが美味しいだろうと感じるから。上のはあくまでたとえ話)
「ふし日記」の文章は、文庫ぐらいの小さな判型で、1日分の出来事がせいぜい1〜2ページでつづられていく。
分量でいうと、Twitterよりは多いけどブログよりは少ない(か同じぐらい)といった程度でひとかたまり。
だから、読みやすい。
難しい言葉も出てこないし、ポップな雰囲気もある。
しかし全編を流れるシリアスさや、叙情性があり、さらにしかし、それに飲み込まれるわけでもなく、ドライな笑いを誘うような、あるいは自分のことを他人のように眺める離れた視点もある。
それが、他の文章にはない独特な軽さを作ってもいる。
「ハイ、ここで泣いて〜」「ここで笑って〜」みたいな、読者を操作するような意図が感じられず、ぼくはその世界を頭から終わりに向かって、ただ道をとぼとぼ歩いていくように、辿っていける。
その道の途中には様々な店や風景があって(さっきの弁当屋もあるだろう)、そこで展開される一つ一つの出来事を、見たり見なかったりしながら通りすぎていく。そういうことを可能にしている。
プツ、プツ、とフラグメンタルに出来事は語られながら、しかしその全体はひとつながりの時間の上に乗っている。
だから、読みかけのところから読み始めると、すぐにその世界に戻れるし、その日付が終わったところですんなり本を閉じることもできる。
たぶん、長時間の移動のときなどに持ち歩いて、電車で読み継いだりするのにもいいかもしれない。
(ぼくはあまりそういう機会はないが)
上記の再販告知のブログ記事では、同書の感想をいろいろ読めるけど、その中でよく合わせて紹介される本で、植本一子さんの『かなわない』というものがあって、ぼくはまだそれを読んでいないけど、著者の経歴から想像するに、きっとその本も、「紋切り型の反対側」にあるのだろう。
最初に『ふし日記』のことを知ったとき、なぜそれに惹かれたのかと考えると、「Weekly Teinou 蜂 Woman」の土屋さんのキャラクターと、本書の概要で示されるトーンとのギャップが大きく感じられたからで、でもこうして実際に読んでみると、あまり無理なく、その二つがつながってくる。
思い返せば、ぼくが「Weekly Teinou 蜂 Woman」を知ったきっかけは、大谷能生さんと出したこの本の、
元になった渋谷のイベントで、ばるぼらさんが同サイトを紹介していたからで、この本はイベントを書籍化したものだから(ぼくは共編・共著)、当然その内容も載せることになって、その編集時に「どんなサイトなんだろ……」と思って調べたのが最初だったはずだ。
世の中には、比べようもなくセンスのある人と、そうでもない人がいて、その前者を見るたびに打ちのめされるような気持ちになるが、この人もその一人だなあ、と、べつにその時にはそこまで自分の中で言語化していたわけではないが、今思えばそのような感想を持った。
普段このブログを読んで、面白いと思っているような人だったら、けっこう好みに合う部分もあるかもしれないので、もし上の話を読んで興味を持ったら、以下へどうぞ。
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