103

『ふし日記』感想

土屋遊(あそび)さんといえば、Webサイト「Weekly Teinou 蜂 Woman」の人である。

そしてまた、「デイリーポータルZ」のライターのお一人でもある。

最近だと(最近でもないが)、この記事が印象的だった。
portal.nifty.com

関係ないけど、デイリーポータルZではこれもヒット! 泣ける!
portal.nifty.com

広告記事の金字塔だなあ〜……。

閑話休題。(いきなり)

その土屋さんが、『ふし日記』という本を出していたのは前から知っていたが、「再販することになったら告知します」という、読みたくても読めない状態が続いていた。

メールで予約しておけば、再販時に連絡をもらえるということだったが、ややシリアスな内容のようだったから、「あなたの書いたシリアスな話に興味があります」と赤裸々に伝えるような感じもあり、ちょっとそのまま様子を見ていた。(様子というか)

ぼくは土屋さんのブログをRSS購読しているので、大半の更新をキャッチしているが、つい最近、その再販が開始されたという情報が出たので、それでようやく購入に至った。

「日記」というぐらいで、日記形式で徒然に文章は進んでいく。

まだすべて読み終えたわけではないが、思ったのは、「こんなに文章らしい文章を読んだのは、ひさしぶりだなあ」ということだった。

「文章らしい文章」というのは、簡単に言い直すと、文学ということになる。
土屋さんが文学のつもりで書いているかはわからないし、そう言われてどう感じるかもわからないが、ぼくにとってはこういう文章はそれになる。

文学だから良いとか、良くないとかいうことでもなく、ぼくがそのように思う文章には共通することがひとつあって、それは「紋切り型から逃げ続ける」ということだ。

多くの「商品」としての文章において、読みながら、途中で「これは……もういいや」と、飽きてしまうのは、その表現の中に紋切り型、つまり「よく目にする表現」がたびたび使われているときである。

突き詰めて考えれば、言葉というのはつねに「誰かがかつて言ったこと」を使い回しているわけで、完全に特殊でオリジナルな表現をされても、その意味を理解することはできなくなるだろうけど、それでもちょっとウットリするような、あるいはカッコつけるような表現が、「ああ……それ知ってる。もう見飽きてる」というものだったりすると、この著者の世界はどうやら狭く、読者である自分に新たな知見や景色を見せてくれるものではなさそうだ、と思ってしまう。

文章を書くことに意識的な人は(という表現もわかりづらいが)、それをなるべく避けようとする。

というか、元々頭の中にあるのは言葉ではない「何か」だから、それを言葉に変えていく過程で、より厳密にその「頭の中にある、言葉ではない何か」を言語化しようと思えば、オリジナルな表現になることは避けられない。

しかし、その過程はあまりに面倒で、煩雑で、達成できるという保証もなく、試みに敗れれば惨めな気持ちにもなるから、普通はそこまでする前に、大体の、あり合わせの、誰もがよく使う表現を多用して終わらせて(放り出して)しまう。

たとえてみると、100種類のメニューが並ぶ弁当屋の店頭で、今日の昼食をどれにするか、完全に気が済むまで選び続けるのが本当の「文章を書く」という作業で、逆に「今日のオススメ」として提示されたそれを「とりあえずこれでいい」と、こだわりなく選ぶのが「紋切り型の表現を使う」ということになる。

(とはいえ、実際の弁当屋ではぼくも「オススメ」の方を取るが。弁当屋にとって都合の良い商品のほうが美味しいだろうと感じるから。上のはあくまでたとえ話)

「ふし日記」の文章は、文庫ぐらいの小さな判型で、1日分の出来事がせいぜい1〜2ページでつづられていく。
分量でいうと、Twitterよりは多いけどブログよりは少ない(か同じぐらい)といった程度でひとかたまり。

だから、読みやすい。
難しい言葉も出てこないし、ポップな雰囲気もある。

しかし全編を流れるシリアスさや、叙情性があり、さらにしかし、それに飲み込まれるわけでもなく、ドライな笑いを誘うような、あるいは自分のことを他人のように眺める離れた視点もある。

それが、他の文章にはない独特な軽さを作ってもいる。

「ハイ、ここで泣いて〜」「ここで笑って〜」みたいな、読者を操作するような意図が感じられず、ぼくはその世界を頭から終わりに向かって、ただ道をとぼとぼ歩いていくように、辿っていける。

その道の途中には様々な店や風景があって(さっきの弁当屋もあるだろう)、そこで展開される一つ一つの出来事を、見たり見なかったりしながら通りすぎていく。そういうことを可能にしている。

プツ、プツ、とフラグメンタルに出来事は語られながら、しかしその全体はひとつながりの時間の上に乗っている。

だから、読みかけのところから読み始めると、すぐにその世界に戻れるし、その日付が終わったところですんなり本を閉じることもできる。

たぶん、長時間の移動のときなどに持ち歩いて、電車で読み継いだりするのにもいいかもしれない。
(ぼくはあまりそういう機会はないが)

上記の再販告知のブログ記事では、同書の感想をいろいろ読めるけど、その中でよく合わせて紹介される本で、植本一子さんの『かなわない』というものがあって、ぼくはまだそれを読んでいないけど、著者の経歴から想像するに、きっとその本も、「紋切り型の反対側」にあるのだろう。

最初に『ふし日記』のことを知ったとき、なぜそれに惹かれたのかと考えると、「Weekly Teinou 蜂 Woman」の土屋さんのキャラクターと、本書の概要で示されるトーンとのギャップが大きく感じられたからで、でもこうして実際に読んでみると、あまり無理なく、その二つがつながってくる。

思い返せば、ぼくが「Weekly Teinou 蜂 Woman」を知ったきっかけは、大谷能生さんと出したこの本の、

元になった渋谷のイベントで、ばるぼらさんが同サイトを紹介していたからで、この本はイベントを書籍化したものだから(ぼくは共編・共著)、当然その内容も載せることになって、その編集時に「どんなサイトなんだろ……」と思って調べたのが最初だったはずだ。

世の中には、比べようもなくセンスのある人と、そうでもない人がいて、その前者を見るたびに打ちのめされるような気持ちになるが、この人もその一人だなあ、と、べつにその時にはそこまで自分の中で言語化していたわけではないが、今思えばそのような感想を持った。

普段このブログを読んで、面白いと思っているような人だったら、けっこう好みに合う部分もあるかもしれないので、もし上の話を読んで興味を持ったら、以下へどうぞ。
bonkyunbon.stores.jp

人間の価値をソートする

同い年か自分より年下の誰かが、自分よりもいわゆる「成功」している姿を目にすると、それを認めたくないような、悔しいような気持ちになる。
これを人は「嫉妬」と呼ぶだろう。

不思議なことに、自分より年上の人がそうなっても、とくにそういう感情は湧かないか、湧きづらい。

思うに、人は知らず知らず、自分と他人とをつねに一つの観点からソート(順位付け)している。

しかしそれは同時に、全人類を対象としたソートではなく、一定のグループを対象に行っていて、そのグループに含まれているのが、同年代かそれより下の世代ということなのではないか、と、自分の体のうちに発生する反応を省みながら考えている。

単純な話、それは小学生、いやそれ以前の年齢の頃から始まっていた、同い年どうしで限られたハコ(教室)の中に押し込められて、その中で1番だ、7番だ、いやビリだ、と順位付けされ続けてきたことが、体や感覚に染み付いてしまったということではないか、と思っている。

それが良いとか、悪いとかいうのはもう意味のないことで、それはただ、そこに「ある」。
少なくともそのように育てられ、生きてきた以上、ほとんど「重力」のように、逃れられない前提としてそこにある。

自分と同じグループにいると思える誰かが、自分より「成功」しているところを見ると、その対象は自分より「上」の順位に入り込み、そのぶん、自分の順位が下がる。

実際にはもちろん、誰かが明確にそのように言ったり、決めたりしているわけではないが、頭の中のどこかで、そういうイメージが発生している。

before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
 
after:
537位 知らない誰かA
538位 成功した誰か ←突然自分の上に挿入される
539位 自分 ←その影響でランクダウン
540位 知らない誰かB

嫉妬の構造とは、たぶんこういうことではないか、と考えている。

成功したように見える誰かを、あるいはそうでなくても自分以外の誰かを、貶めて、足を引っ張って、その地位を失墜させようとする衝動が人にはある。

それもまた、そうしたソートする感覚の作用であって、自分より「下」に誰かが入り込めば、そのぶん自分の順位が上がる、という感覚になりやすい。

before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
 
after:
537位 自分 ←それまで上にいたAが下に入ったぶん持ち上がる
538位 知らない誰かA ←ランクダウン
539位 知らない誰かB

すでに小学校のテストの時間は終わり、定員の決まった大学入試や入社試験も過ぎたはずの大人でも、この思考から逃れることはなかなかできないようだ。

前述のように、それはもう良いとか悪いとか表現する問題ではなく、いくら逃れようとしても逃れられない前提としてそこにある。

限られた食料を、それに見合う以上の数の人々が奪い合えば、飢える人は必ず出る。
とれる人間ととれない人間とがいたら、とれるほうに入りたいと思うのは自然なことだ。

しかし現実の世界では、多くの場面において、そのように人々が互いの順位を意識しなければならない状況はそれほどないはずで、そのことを意識できれば、多少は気が楽になることもあるかもしれない。

嫉妬の感情に飲み込まれる、みたいなことは、日々自然に発生してくる体の垢みたいなもので、「私はもうそれについて一度深く考えたから大丈夫」ということにはならないと思う。

気がつけば体を覆い尽くそうとするそれを、定期的に洗ってやらなければならない。

失敗を定義する

失敗を恐れるな、という言い回しがあって、まったくその通りだと思うが、しかし表現の仕方として、それをAさんがBさんに言いたい、というときに、Aさんの言いたいそれがBさんに適切に伝わるかと言うと、ちょっと意図がズレて届いてしまうのではないか、という感覚を持っていた。

僕が誰かにそのようなことを言いたいと思ったら、どう言うだろうか。
たぶん、「失敗するのはイヤなことだけど、それをしないと欲しいものは手に入らないから、イヤでも失敗を経由して欲しいものを手に入れてください」みたいな感じになるだろうか。

「失敗を恐れずに**をやれ」という言い方をした場合、誤解の余地があると思うのは、とりあえずトライをしたときに、「失敗をしない可能性もある」という風に伝わる可能性がある点だ。
「とりあえずやってみれば、失敗しない可能性もあるんだから、やってみなよ」という言い方になると、ちょっと本質(本当に伝えたいこと)を外しているような気がする。

勧めたいのは、「失敗しないこと」ではなく、「失敗するかしないかはどっちでもよくて、その先にある欲しいものを手に入れること」なわけだけど、「失敗しない可能性もあるよ」という要素を含めてしまうと、結局関心が「失敗するのか、しないのか」というほうに移ってしまいそうな気がする。

そのように関心や目的をブレさせないためには、むしろ「失敗は、する」という前提にしてしまったほうがいいのでは、ということで、まあ僕なら「失敗しながらやってみよう」みたいな感じになるのかなと。

何かをやってみる前に躊躇するというか、失敗を恐れるような状況というのは、たとえてみると、ススだらけの狭い道を抜けて、向こう側へ行くようなものだ。
その道を通ったら服や髪の毛が汚れることはわかりきっていて、入るのは躊躇するし、場合によっては「今日はやめておこう」とか思うかもしれないが、そのデメリットを受け入れさえすれば、希望した「向こう側」へ行くこともできる。

ようは、そうした痛みやイヤな感じを我慢してでも欲しいものを取りにいく、その諦めない感じを伝えられれば良いわけで、しかし「失敗を恐れるな」だと、「失敗するか/しないか」とか「それを恐れるか/恐れないか」ということに関心のフォーカスが絞られてしまって、無駄がある。

何かを手に入れるためには、失敗による痛みやイヤな感じをこうむることはほとんど不可避なので、それは一つの必要条件として受け入れなさい、みたいな言い方にしたほうがいろいろ効率がいい気がする。

数秒で生じる衝撃的な違和感

昨夜、NHKの震災関連番組を見ていたら、糸井重里さんと森公美子さんとはるな愛さんがゲストで出ていたのだけど、冒頭のゲスト紹介で、なぜか進行役の女性アナウンサーが、糸井さんとはるなさんは紹介するのだけど、その二人に挟まれた森公美子さんだけスルーというか無視して、「・・え!?」という感じになった。

あまりにも自然に、しかしあり得ない進行になっていて、どう考えても、というか普通に考えたら、先に森さん以外の二人を紹介する必然性というか理由を、その直後に明かすというか、「・・そして森さん、」みたいにすぐ個別に話しかけるのかと思いきや(それはそれで若干奇妙だが)、そのままVTRに行ってしまってここで本格的に驚いた。

元々の番組進行上の予定どおりだったのか、ハプニング的な軽微なミスだったのかわからないが(テーマが大きいだけに緊張していたとか)、もし予定外のことだったら、その女性アナウンサーの隣には同じくNHKの男性アナウンサーも居たので、せめてその人突っ込んでやれよ、という感じだが、とはいえ前記のとおりあまりにも自然に、かつ即VTRに入ってしまったので、逆にというかやはりというか、常識的な判断が表出する間もなかった、ということではあるかもしれない。

本当はその番組を見続けるつもりはあまりなかったのだけど、そのことが気になってしまい、番組の演出なのか、それともミスだったのか、後者であればVTR明けに、説明というか簡単なお詫びというか言及があるだろうと思って、それほど短いわけでもないそのVTRを見続けて、終わったが、やはりというか、なんとというか、何も説明はなかった。

その後の糸井さんのVTRに対するコメントも大変衝撃的で、なんて勇気のある人だろうと深く感心したのだけど、話が複雑になるのでここでは触れない。

テレビの収録現場というのは何度か立ち会わせてもらったことがあるけれど、その経験から言っても、スタッフや出演者の間では取り交わされている同意事項というか、共通認識のすべてが視聴者に示されるわけではない、ということはわかる。
わかるし、もし想定外のミスだったとしても、「まあ、とりあえず何事もなかったように進行しておきましょう」とか、VTRの放送中にスタジオでは何らかのやり取り(当人へのお詫びなど)があったのかもしれないが、見ていてその違和感があまりに大きく、その後の内容がまともに頭に入ってこない。

「うわー、なんも説明ないわ・・まじで? しかも何事もなかったかのように森さんに話振ってるわ・・」とか思っていた。

その辺りでチャンネルを変えてしまったので、その後なんらか言及があったのかもしれないが、やはりせめてVTR明けに何か言うべきだったのでは、とは思った。視聴者の視点というものが欠けている。
あるいは、僕がぼーっと見ていただけで、本当は糸井さんとはるなさんの間に森さんも紹介されていたのだろうか?(その可能性もある)

ただ、このようなことは震災を振り返る番組だったからこそ生じたのかな、という気もしている。
普通だったら、「おいおい、森さんの紹介がないよ!」とか、ゲスト側からも突っ込むこともできるかもしれないが(立ち上がって、芸人のように)、さすがにちょっと不謹慎というか、あまりそういうことはしづらい雰囲気というのがどうしてもある。

震災のことを扱う番組というのは、毎日のニュースや衣食住的なルーティンとして行うものではなく、言い換えれば多くの人が慣れないままやっているわけで、それで想定外のことに対して適切な対応を取れなかったということではあるかもしれない。
それはまた、震災を取り巻く多くの行動がそうなってしまった、そうなりがちであった、ということを結果的に象徴しているのかもしれないが。

動物の血

最近、丹羽宇一郎さんの『人は仕事で磨かれる』という本を近所のブックオフで安く買って読んでいた。

人は仕事で磨かれる (文春文庫)

いわゆるビジネス系自己啓発書という趣きで、実際聞き語りみたいな、読みやすさ全開の本だけど、内容は面白い。

なかでも印象的だったのはこのあたり。

 卒業論文トロツキーでした。私の一番の狙いは、共産党という規制の厳しい組織の中で、その制約下にある人間性を浮き彫りにすることでした。共産党というガチガチの組織の中では、必ずおべんちゃらを言うやつが出てきます。必ず権力にへつらうやつがいます。権力に反対して本当のことを言うと、トロツキーみたいに追い出されてしまう。あるいはスターリンみたいに粛清をしたりするわけです。すると、最終的に残るのは「おべんちゃら集団」ということになります。そこが共産党の脆弱さではないかというところを論じてみたかったんです。
 このことは、何も共産党に限りません。人間というのは、そういう動物だと思います。だから私は、経営者になってからもよく言うんです。
 人間には二、三百万年も前からの「動物の血」が流れている。神々の、言わば「理性の血」は、たかが四、五千年。いざというときにどっちが勝つかといったら、それは動物の血でしょう。いくら理性、理性と言ったって、たかが知れているんです。官僚や政治家がいくら偉そうなことを言っても、皆一緒。暑いときには涼しいところに行きたいし、お腹が空いたらおいしいものを食べたい。いざとなると、「動物の血」が騒ぐということです。
 これは、人間の弱さ、ある種の業と言い換えてもいいかもしれません。自己保身に走る心です。企業が不祥事を起こす事件は後を絶ちませんが、明るみに出て初めて言い訳をしても、これは保身に過ぎません。会社のため社員のため、あるいは家族のためといいながら問題をひた隠しにし、嘘を重ねていくのも、突き詰めてみれば自分の保身のためなのです。
 嘘は必ずバレます。そして、その分しっぺ返しを食らう。あるいは一つの嘘が十倍にもなって跳ね返ってくるかもしれません。私が「動物の血」というのは、そういう人間の弱さ、邪心です。それを、学生運動をやりながら何となく感じていました。

どちらかと言うと前半のほうが個人的には注目点で、しかしキリが悪いので結論っぽいところまで長めに引用した。

最初に読んだときは、まあ、そうですよねえ、ぐらいのサラッとした感想だったが、後からふと「あそこで言ってた『動物の血』というのはこれのことだなあ」みたいに思い返すことが多くなった。

とくに、「いざというときにどっちが勝つかといったら、それは動物の血でしょう」というところ。

テレビはもちろん、TwitterFacebookなどで毎日のように目にするトラブルの多くは、結局この「動物の血」に踊らされて人間同士でやってるだけのことではないか、とこれを読んでからは思うようになった。

それまでも似たようなことを、別の言い方や表現で考えてはきたけれど、というよりだからこそ、すっと腑に落ちた感じがある。
というかまあ、丹羽さんが本来どういう意味で言っていたかに限らず、自分の考えたいことに沿って自分なりに丹羽さんのこのくだりをアレンジしている、ということかもしれないが。

ふとした拍子にパッと感情に火がついたような状態に、他人もなるし僕もなる。そのような現象を目にしたときに、今は「ああ、動物の血が騒いでいるのだな」と思うようになった。それによって、客観性というか、多少なりの冷静さを保つことができるようになったのではないか、と感じている。

この概念、考え方を持つまでは、どうしていたのか? とすら思う。どう考えても非論理的なことを言っている人を見て、今なら「ああ、この人の中の動物の血が騒いでいるのだな」と思う。

少なくとも、そう捉えることでその人を許したり、こちらまで感情に飲み込まれずに済んだり、するようになった。
(自分が飲み込まれそうになったら、今度は「ああ、俺の中の動物の血がザワついてきた」みたいに考える)

以前であれば、「論理的に説明すれば必ず理解されるなんて考えるのは、傲慢だ」とでも言って自分を納得させようとしていただろうか。それも悪くはないが、説得力としては「動物の血」のほうが簡潔でわかりやすい。

誰もが負の感情を持って、いつでもそっちに転ぶ可能性を持って生きている。その可能性がゼロになるのは死んだときだけだ。自分が大好きな誰であっても、そのような負の側面を抱えて生きている。だから時にそれが垣間見えることがあっても、わざわざガッカリするのは違うと思っていた。
その辺も、同様に説明することができるだろう。

パッと感情に火がついて、他人を傷つけようとすることがある。他人は自分とは別の、モノでしかないような存在だと感じられることもあるだろう。しかしまあ、それは仕方ないことなのだ。肯定するわけではないが、そのような認識の仕方が人間に備わっていることは、この世界の前提として認めておかなければならないし、それによって人間(理性という側面も持つ人間)にしかできないことに集中しやすくなることもあるだろう。