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動物の血

最近、丹羽宇一郎さんの『人は仕事で磨かれる』という本を近所のブックオフで安く買って読んでいた。

人は仕事で磨かれる (文春文庫)

いわゆるビジネス系自己啓発書という趣きで、実際聞き語りみたいな、読みやすさ全開の本だけど、内容は面白い。

なかでも印象的だったのはこのあたり。

 卒業論文トロツキーでした。私の一番の狙いは、共産党という規制の厳しい組織の中で、その制約下にある人間性を浮き彫りにすることでした。共産党というガチガチの組織の中では、必ずおべんちゃらを言うやつが出てきます。必ず権力にへつらうやつがいます。権力に反対して本当のことを言うと、トロツキーみたいに追い出されてしまう。あるいはスターリンみたいに粛清をしたりするわけです。すると、最終的に残るのは「おべんちゃら集団」ということになります。そこが共産党の脆弱さではないかというところを論じてみたかったんです。
 このことは、何も共産党に限りません。人間というのは、そういう動物だと思います。だから私は、経営者になってからもよく言うんです。
 人間には二、三百万年も前からの「動物の血」が流れている。神々の、言わば「理性の血」は、たかが四、五千年。いざというときにどっちが勝つかといったら、それは動物の血でしょう。いくら理性、理性と言ったって、たかが知れているんです。官僚や政治家がいくら偉そうなことを言っても、皆一緒。暑いときには涼しいところに行きたいし、お腹が空いたらおいしいものを食べたい。いざとなると、「動物の血」が騒ぐということです。
 これは、人間の弱さ、ある種の業と言い換えてもいいかもしれません。自己保身に走る心です。企業が不祥事を起こす事件は後を絶ちませんが、明るみに出て初めて言い訳をしても、これは保身に過ぎません。会社のため社員のため、あるいは家族のためといいながら問題をひた隠しにし、嘘を重ねていくのも、突き詰めてみれば自分の保身のためなのです。
 嘘は必ずバレます。そして、その分しっぺ返しを食らう。あるいは一つの嘘が十倍にもなって跳ね返ってくるかもしれません。私が「動物の血」というのは、そういう人間の弱さ、邪心です。それを、学生運動をやりながら何となく感じていました。

どちらかと言うと前半のほうが個人的には注目点で、しかしキリが悪いので結論っぽいところまで長めに引用した。

最初に読んだときは、まあ、そうですよねえ、ぐらいのサラッとした感想だったが、後からふと「あそこで言ってた『動物の血』というのはこれのことだなあ」みたいに思い返すことが多くなった。

とくに、「いざというときにどっちが勝つかといったら、それは動物の血でしょう」というところ。

テレビはもちろん、TwitterFacebookなどで毎日のように目にするトラブルの多くは、結局この「動物の血」に踊らされて人間同士でやってるだけのことではないか、とこれを読んでからは思うようになった。

それまでも似たようなことを、別の言い方や表現で考えてはきたけれど、というよりだからこそ、すっと腑に落ちた感じがある。
というかまあ、丹羽さんが本来どういう意味で言っていたかに限らず、自分の考えたいことに沿って自分なりに丹羽さんのこのくだりをアレンジしている、ということかもしれないが。

ふとした拍子にパッと感情に火がついたような状態に、他人もなるし僕もなる。そのような現象を目にしたときに、今は「ああ、動物の血が騒いでいるのだな」と思うようになった。それによって、客観性というか、多少なりの冷静さを保つことができるようになったのではないか、と感じている。

この概念、考え方を持つまでは、どうしていたのか? とすら思う。どう考えても非論理的なことを言っている人を見て、今なら「ああ、この人の中の動物の血が騒いでいるのだな」と思う。

少なくとも、そう捉えることでその人を許したり、こちらまで感情に飲み込まれずに済んだり、するようになった。
(自分が飲み込まれそうになったら、今度は「ああ、俺の中の動物の血がザワついてきた」みたいに考える)

以前であれば、「論理的に説明すれば必ず理解されるなんて考えるのは、傲慢だ」とでも言って自分を納得させようとしていただろうか。それも悪くはないが、説得力としては「動物の血」のほうが簡潔でわかりやすい。

誰もが負の感情を持って、いつでもそっちに転ぶ可能性を持って生きている。その可能性がゼロになるのは死んだときだけだ。自分が大好きな誰であっても、そのような負の側面を抱えて生きている。だから時にそれが垣間見えることがあっても、わざわざガッカリするのは違うと思っていた。
その辺も、同様に説明することができるだろう。

パッと感情に火がついて、他人を傷つけようとすることがある。他人は自分とは別の、モノでしかないような存在だと感じられることもあるだろう。しかしまあ、それは仕方ないことなのだ。肯定するわけではないが、そのような認識の仕方が人間に備わっていることは、この世界の前提として認めておかなければならないし、それによって人間(理性という側面も持つ人間)にしかできないことに集中しやすくなることもあるだろう。