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人種差別禁止法・ヘイトスピーチ規制法の是非

久しぶりに考えがいのある論点だと思った。





普通に想像を進めると、上にあるような法規制を行う場合には「どこからがそれなのか」といった線引きが問題になりそうだ。(とくにヘイトスピーチの方)

いわゆる「表現の自由」とぶつかる部分もあるだろう。

しかしより重要なのは、この中の「人を深く根源的に傷つける暴力」という部分だろう。これを実感できるか、できないかで意見は分かれそうだ。

いずれにせよ、体を直接傷つけるのではなく、言葉で精神的に傷つける行為を法に触れる暴力であると定義し、広く共有させることが出来たら、それは人類レベルでの進歩ではないか、という気がする。

決闘や仇討やさらし首やギロチン刑が行われなくなったように、野蛮な社会から洗練された社会への移行を示す一例になるかもしれない。

酒に鈍感

いくら飲んでも酔わない人を「酒に強い」と表現するが、それはたんに鈍感なだけではないか、と思うことがある。

通常、「強い」とは良いことであり、「弱い」とは悪いことを指すから、「強くなければいけない」と人は半ば無意識に考え、それが原因で酒を飲み過ぎ、それがまた引き起こす問題というのが少なくないように感じる。

見方によっては、何杯飲んでも表情が変わらない人というのは、強いのでもすごいのでもなく、単に鈍感なだけであり、すぐにつぶれる人は弱いのではなく敏感で繊細なのだと言うことができる。
そのように考えれば、「もっと飲まなきゃ」とか「飲めなくてすみません」とかいった雰囲気を今よりは薄めることができるかもしれない。

酒に強いとか弱いとか表現するのは日本だけのことでもなさそうで、海外の映画やTVを見ても、強い酒を飲み比べてどちらが最後までつぶれずにいられるか、みたいな競争(というか)をやっていたりする。

酒を飲んでいるうちにつぶれてしまう、寝てしまう、意識を失ってしまう、という状況があるから、それを「負けた=弱い」と形容しやすくなるのかもしれない。
それは理解できるが、しかし少なくとも、酒を大量に飲むことを「良いこと」「すごいこと」だと評価するのはそろそろ20世紀までの文化として終わりとしても良いような気がする。

町おこしなどの地域のイベントや、ギネスに挑戦するような企画において、通常であれば競わないような技能を競争するものがあるけれど(何時間片足で立っていられるか・・とか)、そのような非日常的な場で、ある種の特殊技能を測定する機会として考えるのは良いかもしれないが、「強い(から良い)」「弱い(からダメ)」のような人類普遍の価値観と結びつけて考えられる能力ではない気がする。

匿名の相手と戦ってはいけない

ある種のネット上の議論においては、ネット特有の特殊な論法に長けた人というのがいて、その人がそのスタイルを守るかぎりは決して負けず、逆に本来であればまともな話をしているはずの方が論戦としては負ける、という状況が起きがちだと感じる。

もう幾度となく、そして無数の人によって語られてきたように、ネットでは相手の顔や声や立ち振る舞い、着ている服や年齢その他、ようは「見た目」がわからないことが多く、とくに「今この瞬間にどんな状況下でそれを言っているのか」がわからないので、それ以外の要素であるところの「文章」が非常に偏って大きな比重を占めることになる。

というのは、べつにその偏りが「悪い」ということではなく、むしろというか、より直接的なコミュニケーションである電話や対面を通しても人は振り込め詐欺マルチ商法の被害にあったり、夜の駅では酔っ払いに殴られたりとひどい目にはあうわけで、その意味ではネット・コミュニケーションの方がよっぽど安全とすら言えるわけだが、そうした良し悪しとは別に、「文章」をメインにやり取りするがゆえに生じる問題というのはやはりある。

そこで出てくる概念が「匿名」というもので、何しろ相手が見えないので、どこの誰だかわからないまま話し合う、ということが普通に出来てしまう。

そして上記のようなネット特有の論法に長けた人の中にはそういう人もいて、結論としては僕はあまりこういう人と異なる意見を交えてはいけないと考えている。

と同時に、その論を適切に述べるためにはここで言う「匿名」という表現が指す対象を厳密に定義しておく必要がある。
そしてひとまず、ここでその定義を簡単に言ってしまえば、僕が議論すべきではないと考える「匿名」の主要素は、「自分の都合だけでいつでも勝手に存在を消してしまえる人」である。

だから逆に言うと、ここで言う「匿名」とは、単に「戸籍上の名前を隠している」ということではない。
ペンネームでも芸名でもアダ名でも、その人が普段ネットで使っている仮の名前とアイコン画像を見れば、周りが「他の誰でもないその人」だと思えるなら、その人はもうここで言う「匿名」ではない。

よくネットで論戦をしがちな人が言うことに、「自分は実名でやっている人しか相手にしない。文句があるなら堂々と実名で文句を言え」みたいなことがあって、これは批判の的になりやすい。

というのも、そういうことを言う人の中には相手の職場に恫喝・脅迫まがいのクレームを入れて、社会的立場を脅かそうとする人がいるからで、そういう人がそういうことをするたびに「だから実名主義者は信用ならない」という風に、実名主義者とそれ以外の人との間には乖離が広がる。

一方、ここで僕が言う匿名とは、「職場や居住地その他の個人情報を明らかにしていない人」ではない。そのようなことは伏せたままでも、たとえば過去何年にわたりそのアカウント名で活動しており、今後も基本的にはその立場のまま活動するだろう、と思われる人となら普通に意見を交わせると考えている。

だからそうではない、Twitterのアイコンが卵のままだったり、投稿内容も含めて「他の誰でもないその人」と言える要素が少ない相手の場合、その人は何を発言しても責任を負う必要がないため、意見を交わすための条件が備わっているとは思えない。

実名を公開していなくても、そのアカウントを使用しづらくなることで少しでも困るような状況にあるなら、その人は不可避的に発言に責任をもつことになり、その立場を賭けて発言していることになる。
具体的には、もしおかしな発言をすれば、その人は周りから「あの人はああいうことを言う人なのだ」と思われ、その発言は以後その人の属性として付いて回ることになる。

つまり、異なる意見を交わす際に必要なのは「信用」であって、互いの信用を賭けて議論するときに初めてそれは議論として成立・機能する。

もしそうではない状況、たとえば「誰が言ったかは問題ではなく、このような考え方自体が重要なのだ」という風に、元の発言者を不問としたまま概念や考えを議論の対象にするならば、それは不毛の泥沼に足を踏み入れるようなものだ。

名もない通りすがりの男性が、少年野球のグラウンドで素振りをしている小学生に「うまいね」と言った場合と、イチローがたまたま帰国していて、同じ少年に「うまいね」と言った場合とではその「うまいね」の意味はまったく変わる。
前者の存在意義が後者より低いという意味ではなく、単に言っている内容(見ている対象やなぜそう思ったかという理由など)が違う。

言葉は「誰が言ったか」によって大きく変わる。誰が言ったかを踏まえない言葉は無敵のジョーカーのようなもので、想定される発言者によって内容が変幻自在に変わってしまうがゆえに厳密な話し合いには向いていない。

加えて言えば、そのような発言者が不確定である論理には、発言者をどのようなキャラクターにも設定してしまえるがゆえに、考える力のある聞き手ほど、自分の頭の中で勝手に強力な論理に仕上げてしまえる余地がある。

上の例を再利用すれば、発言者の元を離れた時点では野球の知識も経験もない人が気まぐれに呟いた「うまいね」だったはずが、受け手の想像力によってイチローが発言した「うまいね」に変わってしまう。この「受け手が勝手に意味を(発言者や前提を)変えてしまえる」ということが、不確定な話者による言説が抱える大きな問題性である。

上で述べた、「本名も勤め先も明らかではないが、他の誰でもないその人」として特定される存在を、ここでは「一意のアカウント」と呼んでおく。そしてこれは、ここで言う意味においては「匿名」ではない。

一意のアカウントには、「これまでこのようにネットでの活動をしてきた」という厳然たる過去と、それを踏まえて生じる「今後もこのように活動していくであろう」と想定される未来があり、それが上記で言う「信用」でもある。

またその「信用」とは、仮にその後の議論の末に、その人にとって不都合な事実が出てきたり、展開が不利に傾いたりしても、その人は議論を継続するだろうという見込みがあるということで、さらに期待するなら、もし明らかに間違いであるとわかった場合には、その人は素直に間違いを認めるだろう、という見込みまでをも含んだものだ。

少なくとも自分の場合、そのような見込みや信用がない相手とは、貴重な時間を費やして議論をすることはできない。

この文章を書いたのは、少し前に以下の記事で触れた、某氏のやや率直に過ぎる(と見られがちな)ブログ記事に対して、

はてなが誇る匿名の巣窟「匿名ダイアリー」で、無名の誰かによる反論的な記事が書かれ、僕が普段その意見を参考にするような人たちが数人、その記事を指して「いいこと言ってる」みたいなコメントをしているのを見たからだった。

僕はその記事を読んでいないし、そのような無責任かつ無敵の文章を読んだり分析したりすることに人生を使うことは今後もないと思うが、そうした素朴な反応が普通だとされてしまう社会はちょっと生きづらいな、別の観点を示しておきたいな、と思ってこれを書いた。

僕が普段参考にしているような、頭のいい人たちがその記事について「いいこと言ってる」と言ったのは、きっとその文章に残された余白(そこには本来「責任」が入る)を、読者であるその人たち自身がいい感じに埋めて「良い内容」に仕上げたからだろう。

ちなみに、冒頭でネットのコミュニケーションが対面のそれより「悪い」わけではない、と書いたのと同様に、僕はそのような匿名(一意のアカウントですらない匿名)を「悪い」と言っているわけではない。

たとえば企業の内部告発がそうであるように、発言者の存在を発言者自身の判断でいつでも取り消すことができるような機会は必要だろう。

あるいはSTAP事件の不正発覚のきっかけとなったネット上の一連の匿名記事も、当人たちがその気になればいつでも存在を消すことができる、掲示板サイトや無料ブログで行われた。

それらは議論のための投稿ではなく、不正を告発するための(取り上げてくれるのであればそれが誰でも構わない)内容だから、そういう場合はそれでいい。

またそうした危機的な理由によるものでないとしても、いわば心の一時避難場所のように、そのような立場を用いることも時には必要かもしれない。
その意味では、はてなの匿名ダイアリーにも存在意義はあるかもしれないと僕は思っているし、同社がそれを残しているのもそういった側面があってのことだろうと想像している。(といって賛成するわけでもないが)

しかし論理を戦わせる議論という場において、自分の考えを述べようと思うなら、その立場は匿名であってはいけない。
前世紀であったなら、多くの他人と一度に、かつ継続的に意見を交わせる機会は稀で、そのために発信者不定のぼんやりとした「概念」や「文章」を相手にものを考えなければ話が先に進まないこともあったかもしれないが、今は違う。
議論の相手を明確に特定、または設定した上で、その前提のもと(その前提がなければ成り立たない)論を述べた方が効率が良い。

振り上げた拳を下ろす練習

人と人との争いの原因のいくつかは、「前提としている情報(認識)が異なる」ことにある。誰かが誰かを攻撃的に責めるとき、責めた側の前提にしていることが、責められる側にもつねに共有されているかといえば、そうではない場合もある。というか大抵は共有されておらず、「え・・いや別にそういうつもりじゃありませんけど?」みたいなことが多いように感じられる。

これがいわゆる完全な言いがかりというか、勘違いであって、責めた側としても「あ、やべ、俺の勘違いだった」という状況において、すぐ謝れるかどうか、というのはなかなか難しい課題になる。

たとえば普段から、けっこう偉そうな感じで発言し、周囲との関係においてもとりあえず偉い人。みたいに扱われてしまっていると、いい感じで強めに責めたものの勘違いでした、といった場合に「すみませんでした」とはかなり言いづらくなる気がする。

周りにいる人たちが単に建前的・立場的にその人を偉い人のように扱っているだけならまだいいが、ある種の教祖的なというか、精神的支柱のように扱っている場合にはけっこう状況は複雑で、それら信者的な人たちからの目も気になってしまい、教祖的な人は余計に間違いを認めづらい、という感じになりそうだ。

これがいわゆる「振り上げた拳を下ろせない」状況で、言いがかりをつけられた側も不幸ではあるが、やはりそれ以上に不幸なのは、拳を振り上げたまま下ろせない側だろう。
誤りを認められないということは、誤りを修正した先へ行けなくなるということで、周りからの評価としても「誤ったままその先のいろいろなことをしている人」ということになるわけで、当人からすればけっこう痛い。

僕は現在携わっているプロジェクトで中心的な作業を担当しているから、指示を出したり最終的な判断に近いことをしたりする中で、ついつい偉そうな態度に出がちになり、しかし元来うかつなので、しょっちゅうそういう状況(偉そうに言ってはみたが間違っていた、とか)に陥ることになる。

しかし謝れないまま修正も成長もできない、という状況になるのは最もつらいことだから、それを避けるために普段から心がけているのは、なるべくカジュアルに、遠慮なく謝るということだ。
上記の例を踏まえて言えば、拳を振り上げては下ろし、振り上げては下ろし、ということをしょっちゅうしている。

担ぎあげられた御輿から下りられなくなるほど大変なことはない。ああ、間違えたな、と思ったら誰がどう見ようとすんなり謝り、またそのような癖をつけられるようにしたいと考えている。
普段から、自分の間違いを認めたり謝ったりということができていれば、心ならず泥沼の不毛な戦いを延々と続けるような状況からも逃げられるかもしれない。

とはいえ、カジュアルに謝るということは、思ってもいない謝罪をとりあえずしとく、とかいうことではまったくない。そこで行うべきことは、自分が自分に対して仕掛ける「そこで謝ったら低く見られるから、間違いを認めたりせず偉そうにしとけ」という目に見えない抑圧を振り切ることであって、相手を軽んじることではない。

またそれゆえに、一旦は間違いだと思って謝ったものの、やっぱりよくよく考えると間違いではなかったな、と思って謝罪を撤回する、ということもカジュアルにやる。

突然殴りかかってくる人にどう対すればいいのか

人間の相性というものがあって、話せばわかるけど普段はあまり合わない人、話すまでもなくすごく深くわかり合える(ように感じられる)人、どうしても無理、いや絶対無理、みたいな人などがいる。

最後の「絶対無理」という人であっても、目が合えば挨拶ぐらいするとか、少なくとも意味もなく殴りかかってくるわけではない、とかであればまだマシで、その向こうには「意味もなく突然殴りかかってくる人」というのがいて、本人の中では筋の通った理由があるのかもしれないが、夜9時のニュースなどを見ていると連日のように報道される、「どうしてそんな酷いことができるんだ・・」みたいな人というのはそういう感じではないか、と時々考える。

実際には、たとえば深くわかり合える人をA、全くわかり合えない人をZとして、その間にはDやPのような多くのパラメーター(目盛り)があり、さらには以前Wだったはずの人がその後Bになったり、という風に時間軸や状況、条件などによって変わったりということもあるはずで、つまり人同士の相性というのは一様ではないとも言えるが、それでも一定の傾向というのはあるようで、「突然理由もなく殴りかかってくる人」のいくらかは、相手や状況が多少変わってもそのままではないか、と不安に思うこともある。

そして、そういう自分の感覚から遠く離れたZのような人に対しては、AやFのような比較的感覚が近い人に対するのとは別種の対応をしなければならないのかもしれない、とも考えつつある。何しろその人は突然殴りかかってくるのであって、こちらにはその理由がわからないのだから、警戒も応戦もする暇はなく、気がつけばただ怪我をしていたり、命を失っていたりすることにもなりかねない。

「いや、どんなZな人でも見方を変えればAでもあるのだ」という考え方をすることは論理的には可能かもしれないが、現実の様々な事象を見てもなおそのように言うことは難しい。大きく矛盾する。だから考え方を変えなければいけない。

先手必勝、目には目を、みたいなことを主張したいのではないし、何よりそんなの疲れるに決まっていてやりたいとも思わないが、少なくとも理解できないことを平気で(かどうかは知る由もないが)やってしまう人がいる、ということは認めざるをえない。

・・ということをパリのテロに関する報道を見ながら思った。それを無視も否定もしようがないレベルで知らしめたのがそのテロであり、それだけの衝撃があったことを各国の反応がまた伝えている。他の国でも同様かそれ以上の被害や犠牲があるというのに、ことさらパリだけを取り上げるのは不公平だ、みたいなTwitterの投稿を見たが、奇妙な見解だと感じた。誰も命の重さを比べてなどいない。知らなかったこと(あるいは知っているつもりだったが全く認識の足りなかったこと)を知った、それに対する反応をしていて、さらにそれを踏まえて今後できることをやっていこう、と動き出しているだけだろう。

またFacebookがSafety Checkという安否確認機能を公開し、多くの人に役立ったが、
Facebook災害時情報センター

なぜ今回のテロでそれを使用し、以前のテロや戦争被害に対して行わなかったのだ、という批判があったという。
Facebook、パリのテロ事件で適用した安否確認機能の批判を受け、他の災害にも適用すると明言 | TechCrunch Japan

これもまた奇妙な話だ。そのような機能が今回公開されたのは、それが今までに起きた同様の事件以上にFacebookの人々にショックを与えたから、つまりそれだけ身近な問題として捉えられたということであって、批判の対象になるようなことではない。なんというか、以前に書いたこれを思い出す。
空き缶を拾っていると怒られる、という話 — Medium

しかしながら、そのような「?」と思える奇妙な批判を行う人であっても、「突然わけもなく殴りかかってくる人」に比べたらずっと話が通じるに違いないとも思う。怖いのは、議論にもならない、いや争いにすらならない相手である。

しかし人は、いつどうやってそれになるのだろう? 生まれてからずっとそうだという人もいるかもしれないが、たとえば今回のテロの加害者全員がそうだとは考えづらい。ある時あることをきっかけに、Nから一気にZになってしまう人、Aから段階的にZへ向かう人、あるいはそのZと表現しうるグループの中にはまだ人間の感性を残した人が、いや様々な段階の人間的感性を残した人が、それぞれのあり方でいるのかもしれないが。

同じようなことが、同じような様々な国内外のグループや、個人に対しても言えるかもしれない。そしてそのような人々とどうやって、この同じ世界(時間・場所)を共有していったら良いのかと考える。とりあえずは、可能なかぎり逃げるしかないのかな、という気もするが。