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Twitterではなくブログにメモ(Vimから)

140字に収まるかどうか、ほんのわずかであれ気にしながら書くのも面倒、というときにはブログにパラッと投げてしまって、Twitterなどにも流したければあらためてその記事URLを流す。というほうがメモを目的としている場合には理に適っているかも、という感じになってきたのでそのようにしてみることが増えた。

その際にはhateblo.vimを使っている。便利!
moznion/hateblo.vim · GitHub

って、2年前の今頃に書いてた。

その頃にリリースされたんですね。

血液型占いで苦情を伝える

少し前に、「**さんってぜったい、A型だよね!」(だって細かいことにこだわるから)みたいな会話を久しぶりに耳にして、うわー、いまだに血液型で人の性格を規定する人がいるのか、と思い、まあでも一般的にはまだまだそんな感じなのかな・・と思ったのだけど、ふと、いやそうじゃなくて、人が人の性格に対して「キミ、A型だよね〜」とか「O型でしょ〜」とかいうのは、本当は「そんな細かいこと言うなよ、うるさいな」とか「大ざっぱだなw もうちょっと丁寧にやってくれよ」とか言いたいところで、しかしそのまま言うとカドが立つから一種の迂回路、つまり遠回しに苦情を伝える手段として「あなた*型でしょ」とか言うのかなあ、と思った。

大抵、血液型と性格をつなげて語る場面というのは、先に「行動」があって、そこから類推された「血液型」が告げられる(「そんなことをするアナタはA型でしょ?」)という順番であって、逆は少ないと思われる。

ということは、「行動から類推された血液型を伝える」ということは「その行動についてどう思ったかを伝える」という一種のサイン、メッセージになっていると言えそうだ。

もう少し踏み込んで言えば、そのメッセージは不快を伝えるメッセージでもあると思われ、なぜなら賞賛するときに「すごいね! A型だから成功したんだね!」というのは余りに失礼だが、逆に不満や不足を伝えるときに「ダメだなあ、でもその失敗はあなたがA型であることに起因するものであって、あなた個人のせいではないよ」という文脈なら伝えやすい。

つまり、もし今後またそういうことを耳にしたり、直接言われたりしたら、「ああ、この人は、その対象の人のその行動、または振りまく態度を、あまり快く思っていないのだな」と思えば良さそうだ。

もちろん、言っている当人はそんな自覚はないだろうけど、単純にそれに対して「血液型と性格は全然関係ないよ!」なんてマジレスしても仕方ないというか(そう伝えることにも一定の意味はあるかもしれないが)、少なくともそれだけで終わらせるよりは、その人の無意識にあるメッセージを読み取ることに努めたほうがより良い人間関係の構築につながるのではないか、という話。

信頼とは自動販売機のようなもの

あなたは自動販売機の前にいる。しばらく悩んで、お茶を買った。
ガラガラ、と音がして、取り口からペットボトルのお茶を取る。

ごく普通の、当たり前の光景だが、もし冷たいお茶を買ったはずなのに、熱いコーンスープが出てきたらどうだろうか。

通常は、そんなことはあり得ない。しかし人間同士だと、こういうことは結構ある。

誰かに仕事を頼んで、頼んだとおりに成果が戻れば、人はその人を信用する。
「いいっスよ、できるっスよ」と請け合った人の成果が、納期にも間に合わなければ、質も低いものであったなら、その人は以後信用されなくなる。

それはつまり、お茶を買ったはずなのに出てきたコーンスープであり、人はそのような自動販売機ではもう飲み物を買わない。

その人を信用できるかどうかということは、その人との付き合いを経る中で、その人がつど返してきた内容の積み重ねによって自動的に規定されていく。

それは判断する人間の気分や思い込みに左右されるものではなく、揺るがし得ない事実そのものだ。

僕が誰かを信じることがあるとすれば、それは積み重ねられた事実が避けがたく信頼の発生を要請するからであって、それは宗教ではない科学のようだ。

だからもし、僕が誰かに信頼されたいと思えば、それに届くだけの事実を積み重ねるしかないだろう。

勉強を続ける方法

4月から簿記の勉強を始めて得たものはいろいろあるが、中でも大きいと感じるのは「わかる」ための方法というか、厳密には「なぜかつて学校の勉強がわからなくなり、ついていけなくなったのか」がわかった(気がする)ということだ。

簡単に言うと、それは借金生活のようなもので、一度支払いが滞ってからはその利息を払うのが精一杯で、元本を返済することができないうちにどんどん借金が膨らむという、そういう状況だった。

もう少し詳しい喩え話を作ると、勉強とは階段を1段ずつ上がっていくような行為であって、1段目をのぼり終えると、「1段目をのぼり終えた人でなければわからない新たな問題」が出され、それを解くことが「2段目をのぼる」ということになる。

2段目をのぼり終えると、今度は「2段目をのぼり終えた人でなければわからない新たな問題」が提供され、それを解くことで次の段へ上がることができる。
勉強とはその繰り返しだ。

しかし学校の授業というのは、自分だけではない何人、何十人もの生徒を相手に一人の先生が担当しているから、のぼるスピードがそれぞれバラバラの生徒を相手にするうちに、「まだ2段目をのぼり終えていない生徒に5段目の問題を出す」とかいう状況が生まれてしまう。

まだその問題を解くための準備や、前提が整っていないのだから、その生徒がその問題を解けないのは当然で、その生徒に能力がないというわけではなく、たんに理解するまでの、つまり階段をのぼるスピードが他の生徒に比べて遅いだけなのだが、まだ2段目をのぼっている途中で5段目の問題を出され、それをやれ、ということになると、途中まで考えていた問題について考え続ける機会が奪われ、のぼりかけていた足を止めなければいけなくなる。

すると、次の段に進むことができなくなるから、その後はいくら新しい問題を出されても、一切答えることができなくなり、そのまま学年が終わり、学校を卒業するまで「勉強がわからない子」になってしまう。

実際には、最初につまづいたところ(のぼることが止まってしまった場所)で、のぼることを再開できていれば、それで良かった。でも、ぼくが勉強を「わからなくなった」時には、その余裕はなかった。

(具体的には、高校1年の数学だったと思う。途中まではそこそこ良い調子だったが、ぼくはその先生と相性が良くなかったようで、ぼくはわかろうとすることを、先生はわからせようとすることを、それぞれ放棄したようだった)

簿記の勉強をしながら気をつけていることは、「あれ、わからなくなった。何をやればいいのか、見失っているぞ」と思ったら、わかるところまで戻るということだ。

これなら確実にわかる、というところまで戻り、まず自信を取り戻す。自分にはできる、わかる、少なくともここまでは。と思えるところを何度も見直し、そこから、「わからなくなり始めた最初のあたり」を突き止める。

今通っている簿記の学校では、先生の話をわざわざ録音している人は少ないように見えるけど、自分にはそんなの不安でたまらない。録音した先生の話を聞き返しながら、教科書のその部分を何度も読み返し、「日本語がわかるなら、わかるはずだ」と自分に言い聞かせ、またその教科書は専門の学校が「誰にでも必ずわかるように」何十年もかけてアップデートしてきた教材なのだから、とも言い聞かせながら読み返し、聞き返し続けると、「ああ、こういうこと・・かな」という、薄くとも確実に思える理解にたどり着く。

その後、練習問題をまた繰り返し解くうちに、その薄い理解がいくらかの誤解をともなっていたこと、そしてそうではない、より腑に落ちる新たな本当の理解がやってくる。

学習で必要なのは、だから先天的な才能などではなく、小さな「わかる」を少しずつ確実に積み重ねることであり、その動力はつねに「自信」だと思う。自分ならわかる、できる、と思いながら、誰にだってわかるはずの言葉を使って、そして積み重ねた知識の上であれば生まれるはずの新たな発想という道具を使って、少しずつ階段をのぼっていくこと。それが勉強するということだと思う。

わからなくなったら、それは「まだ自分は2段目にいて、『3段目や4段目をすでにのぼり終えている人のために作られた5段目のための問題』などわかるはずがないのに、それを解こうとしているから」だと考えればいい。もしそのまま、まだのぼっている最中の階段をのぼりきることをしなければ、それ以上、その分野において先に進むことは難しいだろうから。

かつて雨のようだった広告とそれに濡れた僕らのために

雨が降るといろいろ面倒になるから降らないでほしい、と思うことは少なくないが、かといって雨が降ったときに空に文句を言ったりはしない。

雨というのは降るものだ、というのがこの世の決まりであって、降ったら困るとは思ってもそれが嫌だから俺もう先に死んでおく、というほどのことではないと誰もがきっと思っている。

テレビを見ていれば番組のいいところでCMが入るが、それを嫌だと思う人はいてもTVにCMがあること自体を駄目だと思う人は少ないだろう。

人々はTVにCMがあるからその番組を無料で見られることを知っているし、自分一人が文句を言ったところでその構造が変わるとも思ってはいない。

しかしこれらはあくまで「他に選択肢がないから受け入れている」のであって、より良い選択肢があれば人は費用対効果を見据えて、新たな選択肢を取り入れた方が得だと思えばそれを取る。

かつては風呂のない家やアパートが多くて銭湯が繁盛していたが、現代では風呂のない家を探す方が難しいくらいだから、その移り変わりのなかで町の銭湯は徐々に消えていった。

かつて銭湯を営んでいた人はそうした時代の進みゆきにともない、その仕事を失ったかもしれない。
また同様に、かつて必要とされた職業は新たな技術によって次々に居場所を失っていったに違いない。

ではそうした人々がかつての仕事に戻れるように、我々はふたたび風呂のない家で日々を過ごすべきだろうか?
あるいは汲み取り式のトイレを回ってくれる業者のために、我々は水洗トイレを諦めなければならないだろうか?

時代の進歩とは、より良い選択肢が生まれ、人々がそれを選べるようになるということだ。

LGBT夫婦別姓といった多様な価値観が議論されるようになったのも、アメリカでアフリカ系アメリカ人が大統領になったのも、時代が進んだから生じてきたことであって、かつてにおいても「偶々そうならなかった」わけではない。それはかつてではあり得なかったことだ。

少し前までは煙草を吸う人が普通だったから、どこに行っても煙を吸い込まなければならなかったが、それもだんだん減ってきた。

コーラを飲みたいけどカロリーの低いものがいいな、という人のために0カロリー・コーラやほとんど味のしない炭酸水が売られるようになり、その種類も増えてきた。

選択肢は増え、選ばれたものが残るのが時代の進歩というものだ。

ここでようやく、広告ブロックの話になる。(そしてすぐ終わる)

広告はかつて、受け入れるしかない雨のようなものだった。
しかし人々は望まない広告を見なくても済む選択肢を手に入れようとしつつある。

そのことによって、かつてあった仕事を失う人もいるかもしれない。
しかし、その人々のために、別の人々はより欲しかった選択肢を手放し、以前のままの生活を続けなければならないだろうか?

ぼくはそう思わない。「かつてのままか、それ以外か」という二択でもなく、少なくともかつてのままではない、しかしなるべく多くの人が幸福になれる方法を考えていければよいと思う。