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有用な広告と楽しい広告とそうでない広告

広告ブロックの話、面白い。

その界隈の話題を目にした後で、TwitterFacebookでタイムラインを見ると、前者はiOSアプリで、後者はPCブラウザで、それぞれ広告がわずらわしいなあ、と感じていることに気づく。

TwitterMacの公式アプリから見ると広告が入らないが、ブラウザやiOS公式アプリから見ると頻繁に入って邪魔だなと感じる。
逆にFacebookだとPCブラウザで見た場合にはしょっちゅう不要な広告投稿が挟まるが、iOSアプリだとほとんど入らない。

このスタンスの違いも面白いが、ともあれこうしたターゲティングというか、出てくる内容が自分の関心に合っていればWin-Winであるはずのところ、なかなかそう幸福な関係にもなりづらい、というのがようは問題なのだろう。

自分が「ああ、この広告機能しているな」と思うのはおもにAmazonで、一旦Amazonでチェックした商品がいろんなところにユビキタス的/サブリミナル的に登場してくると、「そういえばあの商品欲しかったんだよな〜」とリマインドされたかのように見に戻ったり、場合によってはそこで最後の判断をして「えいや」と買ってしまったりするので、Amazonの広告の出てき方、というのは上手い、というかやられた〜みたいに思うことが多い。

上ではPCブラウザから見たFacebookの広告は邪魔だと書いたが、実際にはFacebookに出てくるAmazonの宣伝投稿とか、サイドバーに出てくるバナーに誘発されて商品を見にいく、ということは少なからずあるし、それを必ずしもイヤとは思わない。

とはいえ、上記のリンクにもあるように、そんな風に広告の効果を実感できているなどと思うのはある意味傲慢というか、実際には意識にのぼってこないぐらいのところで、もっといろいろな影響を受けているのかもしれない。

良い広告とそうでないものを分ける基準は、いろいろ考えられると思うが、議論のされ方が雑だと、たんに「感動的なストーリー(構成)」とか「素敵な音楽」とか「映像美」で見せるような広告(テレビCMなど)が良い広告、となってしまいそうだが、やはり本質的には、ユーザーに役立つものを上手く提案&マッチングしてくれる、というのが良い広告であってほしいと思う。

良くできた物語や素敵な音楽や映像美を使ったそれ、というのは見ていて楽しい広告ということで、それはそれで存在してほしいし、80年代セゾン文化などと表現できるような、バブル直前までぐらいの、たとえばとんねるずが一世を風靡していたような時代の広告というのはもう「作品」として面白いものだと思われ、しかし当時はそういうものを「もう一度見たい」と思っても、普通はずっとテレビをつけているか、少し詳しければ特定の番組を狙ってCMごとビデオに録るとかしなければ「何度も見る」ことは出来なかったわけで、その意味では「見て楽しい広告」を享受しやすいのは圧倒的に現代の方で、各社の公式サイトに行ったりYouTubeで検索したりすればそういうのを好きなだけ見られるのだから、今は幸福な状況であるとも言える。

しかしそういう「楽しい広告」が世間一般の人それぞれが本当に求めている商品を提案してくれる「有用な広告」たりえるかといえば、それはまた別の話であって、やはりある程度は分けて考える必要があるだろう。

ただいずれにせよ、そうした「有用な広告」にも「楽しい広告」にもなれない邪魔な広告というものが世の中にはあって、結局「ブロックしたい」と思わせる広告はそれらなのだから、広告業界にとっての本当の敵はブロッカーアプリとかではなく、不快感を与える広告だったり、ミスマッチを頻発するアルゴリズムだったりということに尽きるのではないかと思う。

たとえば、今こうして僕が文章を書いているこの「はてなブログ」にしても、記事を投稿したり更新したりすると、そのつど確認画面のようなページに移動して、反映された記事そのものを見る前に、そこで広告を見せられる。転職支援とか、そういう。で、これは素朴に邪魔だと感じる。

記事が反映された当のページにしても、一つ一つの記事の下方にはやはり広告が入っていて、これ結構不快なヴィジュアルだなあ、などと思っていると、そのすぐ下に「広告を非表示にする」という文言があって、クリックすると「有料会員になれば消せますよ」みたいになっている。
ようはそれらの広告が「お金を払ってでも消したい邪魔なもの」という前提に立つビジネスになっていて、これがまさに「有用でもなければ楽しくもない広告」の存在を明確に証明している。

しかしこれ、どうなのだろうか。広告を出すのもはてななら、消すのもはてなである。
「サーバー代や人件費でお金がかかるんです。だからお金払ってください」というのではなく、「この広告邪魔ですよね? 消しますからお金ください」という状況になっていて、なんだか不思議だ。
イメージとしては、道ゆく知らない人にいきなり水を引っ掛けて、「乾かしてあげましょう。その代わりお金をください」という商売のようだと感じる。

結局、そのような仕方で広告を使って収益をあげる方法そのものが、地味に着実に「広告は有用でもなければ楽しくもない邪魔で不快なもの」というイメージをユーザーに植え付けてきて、その結果として「広告イラナイ、キライ」という印象を補強してきてしまったようにも感じる。
上でははてなを例に挙げたが、YouTubeもそうで、最近は以前ほど見なくなった。

もちろん広告業に携わる多くの人はそんなミスマッチが引き起こす広告自体へのデメリットにはずっと前から気づいているに違いないが、今回のようなブロック機能の本格的な登場というか、導入しやすい環境ができたことによって、後回しでも良いといえば良かった最適化作業が若干なり優先される、ということになるならそれはやはり良いことなのではないか、と考える。

致命傷にならない範囲で傷つけ合う

佐野さんのエンブレム使用中止、あまりにもショックが大きい。小保方さんやザハ案件と並べている人もいるけれど、起きていることの質がまったく違う。自分はこれを想起した。

佐野さんを糾弾する力の多くは高まった自らの欲求不満と攻撃欲求を満たすことを目的に動いているように感じられる。そのための都合のよい口実として良識や道徳が持ち出されるのだと。

その攻撃性は自分の中にもある。残りの人生で自分の中からそれが無くなるとも、周りから消えるとも思えない。

韓国で「ナッツ・リターン」という騒動が起きたとき、韓国の人は情緒がちょっと過剰じゃないかと感じたけれど、全然韓国だけの話ではなかった。現在日本で起きていることに、心底恐怖を感じている。

我々はこれからも叩き、叩かれるのだろうか。純粋な平和や愉快さをいくら求めたところで、その裏側で増殖する憎悪や嫉妬の力にいつ飲み込まれるかわからない。
限られた、いや限られているがゆえに強力な、圧倒的に矛盾のない稚拙な常識に支えられた攻撃に対して、今できることはひとまず殺し合わずに済むように、攻撃をしてもされても致命傷には至らないよう注意しながら、わずかであれ先へ可能性を繋げながら生き延びることだけなのではないか、と考えている。

複式タスク管理法

複数の面から会計記録を取る複式簿記同様、一つのタスクを複数の面から(たとえば依頼する人と実行する人、当事者とその他の関係者等)記録する複式タスク管理という方法は効果を発揮する可能性がある。

「さっき投げたメール見といてください」というだけのタスクであっても、依頼したAさんと依頼されたBさん双方のタスク(メール見てもらう/見ておく)が一つの「やることリスト」に併記されていれば、作業が抜ける(停滞する)可能性は減るはずだ。

「自分の責任は依頼するまでであって、進まなかったら依頼されたBさんが悪い」とか、「本当に大事な要件ならリマインドしてくるはず。何も言ってこないなら大して重要じゃないってことでしょ」とか、責任回避の言い訳はいつでもスルッとプロジェクトに侵入し、成果を蝕む。

複数人に関わるタスクは複式で管理できるよう何か方法を考えたい。

見積りを誤るのは希望的観測にもとづいて判断する方が楽だから

日程にせよ費用にせよ、見積りを失敗する大きな要因の一つは、「甘い見積りを出すほうがその時点における精神的負担が少ないから」だと思われる。

「短めの日程」と「長めの日程」を作業前に比べたとき、後者の方が安全性が高いのは誰にでもわかることだが、そちらを取るべきだと主張するのは、気持ち的にちょっとつらい。

逆に、前者の方が危険性が高いとわかってはいても、それが達成できた場合のさまざまな利点はあまりに魅力的で、ついそちらを取りたくなる。

言い換えれば、「できません」と言うことは自分をみじめな気分にさせるが、「できます」と言うことは自分を誇らしい気分にする上、周りを喜ばせることもできる。

しかし、その誇らしい気分や、周りからの評価は「借金」のようなもので、負債は後から必ず返さなければならない。

人が人である以上、悲観的観測にもとづく見積りよりも、希望的観測にもとづく見積りの方を取りがちなのは仕方がない。

だからせめてそのことをつねに意識して、借金を抱え込む可能性をなるべく減らそう、という話。

FM的Twitter利用法

最近、Twitterでは以前フォローしていた人をどんどん外して、以前は知らなかった&今もとくに知り合いとかではない、プログラマー英語圏の人をフォローしている。
というのは、単純にそういう人たちの発言に興味があるからで、これはラジオの放送局をチューニングする感覚に近い。

当初は自分の知り合いや、好きな有名人をフォローしたりして、それらのツイートが雑多に流れてくるのがTwitterだと漫然と思っていたけど(それもべつに間違いではないけれど)、ふと気づいたのは、知り合いのツイートが必ずしも自分の興味に合致するわけではないということだ。

Twitterでは相手をフォローしていなくても、@で効率的なコミュニケーション取ることができるし、フォローするなら、短い人生&限られた時間、なるべく自分の知りたい&知らない情報を流してくれる人の方が良さそうだ。

比較的永続性のある知り合いとのコミュニケーションには、Facebookの方がより向いているだろう。
あるいはLINEもそうかもしれない。ほとんど使っていないのでわからないが。

友達や仕事上の付き合いのある人との関係をTwitterで作るというのはなかなか負担があるし、そもそもそれは抱える必要のない負担だ。
疲れるコミュニケーションのためにではなく、好きなラジオや雑誌に触れるように、日毎の関心に応じて意識的にカジュアルにTwitterを使ってみようと思ったという話。