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 数日、怒涛・・・って、いつも書いてる気も。ようやく一つ、書き起こしのひとやまが終わってドワー、やったー、って思って手帳を開いたら、これ、先週の今日に終わってるはずの山だった。ガーン。とはいえ、今回越えたそれはこれまでのどのテキストより速く進んで自信になっていて、もしかしてノッてるのかもというぐらいなのでこの間隙を縫って走りたい。
 先週土曜はイベント、日曜にはいろいろ準備して、月曜にはスーツを着た。久しぶりに・・・暑くてシャツが張り付く。ネクタイ結ぶのに6回ぐらいやり直した。いつまでも上手くならないのは、いつも締めてないからだ。いろいろ考える日々。それが何に繋がるのかは知らないが。月曜はペン大だったのだが仕方ないねーとは前にも書いた。火曜は何だ、書き起こしの仕上げか、でも仕上がらなくって今日までやった。仕上がり直前、と、自分で思い始めてからが一番つらい。本当。金、土、日、月まではあれよあれよのミーティング進行で、それまでにあれとあれと・・・最近思うのだが、僕は物凄く許容できる情報量が限られている人なのかもしれなくて、ふんふんと人の話を聞きながら、あるいはものを考えたり憶えたりしながら、その大半をボロボロと取りこぼしているような気がしている。なんだか全然、メモリーに入っていかない感がある。そこへ無理に情報を入れて行くと、ん・・・ってすぐに眠くなるのだ。具体的に頭が重くなってきて、だから寝る前には字の多い本(翻訳小説などマジで良い。ノーベル文学賞を獲ったようなやつだったら100パー)を眺めているだけで5分とかからず入眠。それはどうだ、良いことなのか?・・・いや。
 家を片づける必要がある。でもやりたい事とやるべき事とやったら大層嬉しくなる事(前二者と被る)があって後回しになりがちだ。書き起こしは楽しい。なんたって僕が起こしている内容は元々が相当面白いのだからそれも当然なのだが、なんだか起こしたテキストを読んでいる内に、それを書いている僕が面白いような錯覚を感じてくるのがおめでたくっていい湯加減だ。たしかに書いているのは僕で、僕が起こさなければ世間にリリースされるのは最低3年は遅れるような内容のものに僕は携わっているが(3年は無根拠)、それでもべっつに僕じゃなくてもいいのが前提だ。書き起こし関連の広告で、1時間の内容を3時間で仕上げるってのがあったけど、僕にはそんなの無理で、最低どのくらいの時間が必要なのか検討もつかないし、つけようとも思えない。いずれつけないといけなくもなるかもしれないが(でもそんなに遅くもないと思うけど)、今はわからないしわかろうとも思えない。ってことは一行前に書いた。何を言いたいかと言うと、テープを通して世界の実りに触れている素晴らしい人たちの素晴らしい話に触れることができて僕はまずまず幸せな日々だ。体の表面に、見えない具体的な痛みの服を着ていつまでも脱げずにいる日がしばらく続いているが(早い話が慢性的な筋肉痛だ)、それでも頭内風景と気持はいい。
 最近朗読に凝っていて数日間、日に15ページずつぐらい、ウンベルト・エーコの読みかけだった『フーコーの振り子』の下巻を読んでいるが、朗読って非常に有効な読書の推進力になって、面白い。そういうヴィークル、ヴォイス、乗り物なのだ。