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水の話

「信頼」についてはこのブログをはじめあちこちで書いてきました。
ここで言う「信頼」は「信用」でもいいです。同じ意味で言っています。

よく「信頼を得るには長い時間が必要だが、失うのは一瞬だ」みたいなことを言うけれど、それは違うんじゃないか? というのがその(いつも言っている)内容です。

簡単に説明すれば、「一瞬で失うようなものは信頼とは言えず、思い込みと言うべきだろう」ということです。

これは相手が人ではない物だったら、わかりやすいと思います。

いつも使っているテレビのリモコンが効かなくなったら、「電池が切れたかな」と思うのが普通で、「今まで使えると思っていたけど初めから壊れていたのかもしれない」なんて思う人はいないでしょう。

しかし相手がリモコンではない人間になると、「今まで良い人だと思っていたのに、じつは信用できないやつだった!」みたいになりがちで、そのズレた現象自体魅力的ではありますが、いずれにしても客観的にとらえれば、それは「今まで良い人だと思っていた」というのが単に淡い根拠にもとづく思い込みだったということだろう、という話です。

つまり、ぼくにとっての「信頼」とはそのリモコンに対する感情や態度のようなもので、それは相手との関係が続いていく中で、自然に、結果的に、自分の意図とは関係なく生成されていくものです。

言い換えれば、他人に対する信頼というものは、自分が主体的にコントロールできるようなものではなく、否応なしに、積み上がったり、すり減ったりしていくものなんだろうと思っています。

つい最近、それは自分自身に対しても言えることなのではないか、とふと思い、もし「自信」というものが、「自分に対する信頼」と定義できるのだとしたら、「自信」もまた、自分で「自信を持とう」なんてわざわざ考えるまでもなく(というか考えてもそれとはまったく関係なく)、自分自身との1秒1秒の付き合いの積み重ねの中で勝手に醸成されていくものであって、言い換えれば、自信を持つとしても、失うとしても、結局は自分自身による事実としての日々の行為が決めることなのだろうと思いました。

以前にこのようなことをどこかに書いたのは、あるとき人から「私を信じてください」みたいなことを言われたときだったと記憶しています。

ぼくはその人のことを、信用しても、していなくもなかったと思いますが、それでもその「信じてください」という言い方、考え方には、わずかながらも確実に、ある種の反発を覚えました。
くだけて言えば、カチンと来たみたいな感じです。

くり返しになってしまいますが、ぼくは「信じる」というのは能動的に、意識的に行うことだとは思っていません。
それは否応なしに、つまり「テレビのリモコンというのはボタンを押せば当然テレビを遠隔操作できるものだ」と思うのと同様に、受け入れざるを得ない事実として、自覚するまでもなく受け入れているものなのだと思っています。

「ぼくはこのリモコンがテレビを遠隔操作できると信じよう」なんてわざわざ思っているわけではありません。

それに対して、「信じてください」とは、「これまでの私の過去の行為はすべて一旦ちゃらにして、今後はぜんぶ大丈夫だと思ってください」と言っているようなもので、まったく意味の違うことです。

それは実際には、「私に賭けてください」と言っているようなもので、だからもしそう言われたなら、実際に賭けるかどうかは別として、その人の言っていることを素直に、場合によっては誠実さすら感じながら、聞けたかもしれないと思います。

ぼくはこういった考え方を合理的で論理的であるように思っていますが、今の世の中ではあまりこういう「信じる」という言葉の使い方はしなさそうというか、むしろ「信じてください」「よしわかった」みたいなやり取りが古来変わらず行われているように思えます。

いずれは少なからぬ人がぼくのように考えるようになるのではないかと想像していますが(なぜならその方がいろいろ不利益が生じづらいと思えるので)、少しでも時計を早められたらと思って、何度めかのことではありますが書いておきました。

上記はまだ今回の話の前置きでした。

人が他人のことを「あいつは信頼できる」「できない」という風に判断したり、言ったりすることはよくありますが、どうもその辺の判断がちょっと極端なのではないか? と思うことがあって、それについて書いておこうと思ったのでした。

人が他人のことを「あいつは信頼できる」と言うのは、ぼくの印象では「100%信頼できる」の言い換えであることが少なくないように思えます。
また逆に、「あいつは信用できない」と言うのは「100%ダメだ」の言い換えになっているのではないか、と感じることが多いです。

しかし実際には、100%完璧な人間なんていませんし、100%ダメな人間というのもなかなかいないのではないかと思います。

これについて考えているときに、思い浮かべたのは水でした。

ビーカーに入っている水を思い浮かべてください。けっこう大きめのビーカーです。

そこには水が8割ほど入っています。透明な、水以外の何物でもない水です。ミネラルウォーターでもいいです。

そこに1滴、赤い水を垂らします。たとえばそうですね、トマトジュースでもいいです。スポイトで1滴だけ垂らします。

垂らしてすぐに撹拌すれば、そしてそれを入れたところを見られなければ、誰もそこにトマトジュースが入ったとはわからないでしょう。

しかし垂らしたところを見た人にとっては、その1滴は不可逆的な事実として映ります。

その人にとって、目の前の水はもう「100%の水」ではなく、「数%のトマトジュースが加わった水」であり、それが「100%の水」に戻ることは二度とありません。

上で書いた、「信頼」の基準がちょっと極端なのでは? というのは、その「数%のトマトジュース」が入っただけで「水として認めない」みたいな態度を指しています。

具体的に言えば、それまで普通に暮らしてきた人が、あるときちょっと信用を失うような行為をした、と。
そしてそれを見た人々が、その人の全人格・全人生が間違っているかのような、劣ったものであるかのような非難をする、みたいな状況です。

ぼくは必ずしも、そうした非難をする人たちのことを理解できないわけではありません。
むしろ、その気持ちはとてもよくわかります。

しかし、それをやってしまうと、非難される側はもちろんのこと、する側としてもちょっと生きづらいというか、他人との関係を持ちづらくなるように思えます。
周りからも、面倒くさい(あるいは「ちょっと怖い」)人だと思われてしまうかもしれません。

そして実際のところ、「純度100%の水」のような人というのは、どこにもいないか、恐ろしく限られた確率でしか存在しないのではないかと思います。

言い換えると、社会生活を送る上で出会う大半の人は、「数%のトマトジュース」どころか、見たこともないようなものがどろどろに混ざった液体で、あるのはそれがどのぐらい透きとおっているのかとか、どのぐらい飲めるのかという「度合い」の違いだけで、だから他人の信頼性について考えるとしたら、「100%信頼できるかどうか」ではなく、「あの人は30%ぐらい信頼できる」とか、「70%ぐらい信頼できる」とか、そういう割合で見ていくべきなんじゃないかと思います。

裏を返すと、ぼく自身もけっこう、自分で言いますが律儀というか、それが度を越してちょっと強迫的というか、他人との約束は100%守らなければ、と思いながら行動するようなタイプで、もちろんそれは尊い態度だと思うものの、そればかり重視しているとやっぱりデメリットもそれなりに生じてくるので、多少雑になっても、たとえば信頼度60%ぐらいでも、場合によっては20%ぐらいでも、大局的に見てさほど大きな影響が出ないならそれでもいいのではないかな、と思ったのでのちのちの自分のためにも書き留めておきました。