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「失敗」とは思ったとおりに再現できないこと

最近関心をもっていることの多くは、再現性というキーワードで説明がつきそうだと考えている。

何かが「上手くいった!」と感じられたとき、その状況を言い換えると、「頭の中でイメージしたことを再現できた」と言うことができそうだと思う。
逆に言うと、頭の中でならできたはずのことが、あるいは一度はまぐれのようにできたことが、その後の現実の世界ではぜんぜん望んだように再現されない。というのが「失敗」と言えるんじゃないかと思いつつある。

僕は失敗をいやだと思い、避けたいと思い、実際にそれを避けるためのたくさんのことをするが、それでも失敗から逃れることはつねにできない。
現実の世界ではいつも想定外のことが起きるし、想定どおりにことが運ぶことなんてほとんどないとすら思われる。

しかし同時に、長い目で見るとそうした失敗は、いつもその後の成功、というのはつまり「意図したとおりにできる」ことの発生率を高めてもいるようにも感じられる。
たとえば野球ボールを数メートル先の的に当てようと投げてみる。すると、それが1度目の投球で当たらなかったとしても、何度もやっているうちに命中率は徐々に高まるはずである。それと同じことが様々なレベルで起こっている。

大抵のことはだから、そうした「再現性」の有無、またはその発生率の高低から説明がつきそうだと思う。
もしも他人の環境下で生じたある不具合が、自分の環境下でも再現できたなら、それはもうかつての不具合そのものではなく、改善されはじめた現象のひとつである。

そのように考えると、人は何度も同じことで失敗しているうちに、そのぶんその後に同じ失敗の発生率が減っていることを感じられるかもしれないし、実際それは間違っていない。(はずだ)
いつまでも同じことに失敗できる人はおそらくいない。徐々にであれ失敗率は下がっている。
ただしもちろん、生きているうちにそれが「成功」と言える状況にまで転じるかどうかは別の話である。2千年ぐらい生きていなければ成功とは呼べないという状況もまたあるだろう。

再現性を充分に高められたことを「成功」と呼ぶならば、成功するためには「練習」を重ねるしかない。練習を重ねることで、人は再現性を高めていく。
「練習」の定義はこのとき、一定の環境下における再現性を高めること、と言える。

ろくに練習をせず、イチかバチかのような状況で大枚を賭けてしまう状況、というのがどうも多いような気がする。
練習は過酷で、楽しくはないものだし、それをすればいいと分かったところで、なんの解決にもならない場合の方が多いかもしれない。
しかしそれでも、「失敗したのは練習が足りなかったからで、また失敗するのがいやなら練習することでそれを避けられる可能性が多少は上がるかもしれない」と思えたなら、少しは気持ちがラクになることもあるだろう。