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國分功一郎+千葉雅也トークセッションを起点に考える人生の倒し方について

11月に入り、目下の仕事には必ずしも直接的には関わらないイベントにいくつか行っている。行くまでは非常に億劫な気持ちだが行ってみるとよくやった俺、という気になる。以前には、(というのはもう5年以上ぐらい前だが)そういうイベント参加、つまりフジロック行ったり面白い人のトークイベントを見にいったりが常態で結局いまやってる仕事もその環のなかにあったわけだが、さらに元をたどればひきこもり性というかずっと炬燵に入りつっぷすようにグッタリしながら頭の中だけで何であれ夢想していたい性質だから今となっては時間のあるときほど外には出ないしペン大や社交をサボるのもそういうわけだからなのだとここ数日でようやく気づいた。このところのイベント参加はだからふと再開してみた筋トレのようで、部活をがんばるようにがんばってやっては部活をやっていなければ味わえなかったような何かを味わってはいる日々だ。

11/5には國分功一郎+千葉雅也トークセッションat池袋。いわゆる人文系若手論客の二人によるそれで、タイミング的にも内容的にも行くしか、という感じでだいぶ前からなんとか予約、行ってみたらやはりおもしろかった。テーマは國分さんの新著にからむあれこれで、関心的にも重なったり近かったりする点多数だったけど、それ以上に印象的だったのはなんというか、「若い世代の良し悪しとは何か」みたいなことだった。若い世代、というのはそのお二人、ということでもなくて、というかもっと若い、まあ10代のひととか大学生とか小学生とか、そういう人たちが考えてることだったりその後どうなっていくのか、何をやっていくだろうか、みたいなことだった。
実感として、いま世に出ているコンテンツっていうのはテレビにしろテレビにしろどうも時間をくだるに従ってつまらなくなってきているように思えなくもない。一方でより先鋭化され更新され続けてるものもあるカモ、とは思うけどしかし全体の傾向としてしょうもないコトに感動したりしたように見せたり、というケースが多いような。感情の振れ幅みたいのがどんどん小さくなって、以前は誰もが振り子が90度ぐらいまで上がっていたのが今では20度も上がれば最高、みたいな。いずれ静止してしまうのではないか、みたいな。アヴェレージがそうやって低下しているので以前だったら80度上がって合格だったのが今では18度上がれば奇跡、みたいな。これもまたTVの視聴率の話のようだが・・。
かといって、最近のひとの感性やエネルギーが弱くなってるとかは考えづらい。2000年前のひとに比べて、とかなら想像できなくもないがそう短い時間で人間の能力に差が出るとは思えない。では何が違うのか。ぼくは最近目にするコンテンツに対してどうしてある種のこの物足りなさを感じるのか。

ひとつには僕自身が変わったというか年をとって、以前は素晴らしいはずだと夢想した世界が、あれなんだこんなもんか?とか肩透かしをくらったような感じになっているのかもしれず、世界を肯定するような意味で俺の問題か、と結論づけるのもありな気はする。
そうでない考え方として実際に世界のコンテンツがどんどん薄まっていって、かつての濃いのを知ってる身として残念がってる、てのもありうるけどそれもどうなのか。簡単にいって、ダイナミズムというか、豪快な驚きや発見、というのに飢えてきている気がする。ものすごい光景や才能に出会って今までの世界なんだったんだよ・・と思うような何か。そういうのがなくなったり小さくなったりしてきているような気がする。テレビやネットが行き渡って、そういう体験を得づらくなってきているということだろうか。本当のリア充とはそういうものかもしれないな、と脱線がてらそう思ってはいる。リア充とはぼくにとってはもうとりあえず新しいことやもっと便利なことに出会わなくてもべつにいい、と思ってるひとのことで、情弱といわれるひとは現状をより良くするための新たな何かを調べる必要がないと(無自覚にであれ)思ってるから情弱なのであって本人的には情弱で構わないから情報を知らないし情報強者は満ち足りてないひとってことになる。だから情弱はリア充に似ている。

話を戻すと、ほしいのは目が覚めるような驚きや発見で自分がぐるんと入れ替わるような体験だ。今までに知った一切を否定して新たに生きなおせるような、そういうデカイ体験を待っている。暇はいくらでもほしい。でも退屈を根底から否定したい。味わうならそういった驚きを引き立てるための、バネを極限まで縮めるようなそれであってほしい。國分さんの本はじつは一貫して「快楽論」になっている感じでこれは「暇と快楽の倫理学」ではないかと感じた。

若い人たちは目が覚めるような体験に向かっているだろうか。ぼくはどうだろう。手近な快だけを重ねていると、先細りして滞空時間が短くなる。おなじ薬が効かなくなったり酒量が徐々に増えるように。たくさんの痛みや苦さやキツさを正面から通過して一番高いところからジャンプする必要がある。時間は限られており最終的にはやり直しはきかない。生をうけた我々は垂直な一本の棒切れとして立ち、次の瞬間から地面に向かって倒れていく。ゆっくり倒れるものもあれば一瞬で地面に張りつくものもある。しかし再び起き上がるものだけはなく、あるのはどのように倒れるか、という倒れ方の違いだけだ。