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タワレコとツタヤの印象。それを受けて

日曜だったか、タワレコのイベントを見にタワレコへ。渋谷。そこで感じたのは、インドのチェンナイにあるCDショップおよび諏訪湖近くのショッピングセンターで浴びた終わりゆく地方デパートに漂う空気の温度で、あれ、こんなに大きな音で音楽を流しこんなにお客さんもたくさんいるのにどうしてこんなに寂しいのだ、という感触。店員さんはアグレッシヴで丁寧、やさしい。いろいろ聞けば1の質問に100返ってくる素晴らしい対応。でも産業として土台の余力がどうなのか。たんに終わりゆく、といって悦に入りたいのではなく事実としてもうこれは需要がないだろうと思われる。いますぐに節操なく新たなフィールドにタワレコごとヨイショと移動しないとまずいんじゃないかと、CDケースのうっすら汚れた背を人さし指でなぜながら思った。
帰宅後、資料を探しにツタヤ。なんと相棒ばっかり。映画をわざわざツタヤで借りて休日を楽しもう、なんていう客は、減りはしても増えはしない。そういうライフスタイルが悪いのでもださいのでもなく、減るしかない状況にあるのではないか。というか増える理由がない。テレビドラマとかお笑い番組のDVD化が増えて、シリーズで借りてくれれば、というのはいい次善策と思うけどそもそも映画とテレビ番組とではスポンサーなり客層なりの縛りで出てくるものの幅というか純度というかやっぱり全く質が別でもちろんテレビにも物凄いものはあるだろうがやっぱりその1本で終わってもいいそこに全て賭ける、というふうに作られた映画と膨大にあるルーティンというか勤め人の職業として作られるテレビ番組のそれとでは同じ棚に並んだときに生じる違いというのがあって仕方ないとは言える。ひとことで言えばかけた時間が違う。時間かせぎの次善策にしかそれはならないんじゃないか・・
タワレコに話を戻すとイベントが終わってから店内をふらふらしているときに続けてかかった2曲(Jポップ)がどちらもカヴァーでいまは昔ヒットした曲をカヴァーして売る割合が前よりずっと増えている。新曲という名のもとに同じような曲の再生産をするのとどっちがマシかはケースバイケースでカヴァーばっかりなのがわるい、とも思わないけどこれはなんだか象徴的だとも思う。人間自体のエネルギーとか志向性(というか)とかなんか要するに中身はほとんど同じであるはずなのにこの尻すぼみ感は一体なにによるものだろうか?そこにはきっと理由がある。
すこし前に倉本美津留さんが六本木でイベントをやるというので行ったら行列しててそのなんだか来てる人たちをみると今でもやばい人たちは普通にいるよなと思われたりもしたが、彼らがいない場所がいま僕のいる場所なのかとも思ったり。やばい人たちはいまどこにいるんだろう。彼らはカヴァーを聴くだろうか。
次のscholaはプレスリーなどロックの黎明期がテーマだが、ビートルズもプレスリーもカヴァーでスタートしている。カヴァーが悪いわけではなく昔からそうでクラシックなんてみんなカヴァーを演奏してそれを聴いている。コピーではなく。ということは世界はそのままで僕の感じ方が「つまんなくなったな世界」となっているだけなのだろうか。それは先人がかつて僕にそう言ったようにそうなだけだろうか。
僕にはタワレコで2曲つづけてかかったカヴァーが恐ろしくつまらなく思われこれに感動するやからがいるのは恐ろしい、感動がやすくなったよな最近の世界、と感じたのだったがそれは僕のおごりだろうか。いくのが早いと僕はおもう。メールで「!」がやたら多い人が増えてきたように思われることとそれはつながっていると思うけど思い過ごしだろうか。
感動がやすい、というのはある種のブログやtwitterを見てても思うことでいいかえれば「大げさ」じゃないか誇張だろそれと思われることがまた多い。過不足なく思ったように言ってそれだったらなんというか、たしか『ジオラマボーイ・パノラマガール』で誰かがいった、つまらない人はつまらないことで感動するよね。みたいなセリフを高校生か予備校生ぐらいのときに読んでああこれ、俺のことだ恥ずかしい!と思った俺のようではないかと思えてきたりもする。子供の頃に花王名人劇場サブローシローの漫才をみて死ぬかと思うほど笑い転げた(笑いながら苦しく座っていられず転がった)のは笑いの免疫がなかったからだと後から思ったが免疫がないから簡単に感動したり誇張したりするんだろうか。それとつまらないカヴァーが流れ続けることとは関係があるだろうか。
おそらくはカヴァーだってよくて言う人によるのかもしれないとも思われる。言う人による。罪を憎んで人を憎まずとはいうが同じ罪を行ってもなお憎まれようのない人というのがいる。
紅白でみた浜崎さんやこうださんの歌っているところをみて、これはまさに演歌そのもの、現代の、ではなく現代でも演歌だと思った。あの身振り、歌っている内容、声の動き。子供の頃に演歌を見てこれのどこにお客さんは喜んでいるのかと疑問に感じたのとまったく同じ目をその歌々に対して向けていることに気づく。これを受容しているのは誰だ?
人々が人間としてもっと気持ちよい方向へ動こうとしており何を求めているのか、ちょっとだけ先行して感知しているのではないかと自分に対して思っている。そういう能力がほんのちょっとだけあるんじゃないかと、秀でた優れたものではないがないこともないのだとすればそれを生かす努力はしないとな・・と思ってとりあえず記してみてる。