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時間の使い方がへただ。間違いばかりしているきがすう。気がするにとどまらず実際にそうだろう。PKディックの流れよなんたらという小説をそういえば、ジュンクさんの柴崎友香フェアで買ったのだった。
そこから少し離れたところにはドビュッシーフェアが開催中。大きな棚で、思った以上に本を入れられそうなので種類も追加していきます。それらが来週半ばくらいからは仲間に入ると思います。と、昨日も書いたっけ。わからない。それを確認する時間を節約してみよう。今日、帰り道に「節約・・時間を・・」と思った。お金もそうだが時間もね、と自分にそのときに言った。最近、知らない方々と初のご挨拶をする機会が多い。営業と呼びたいその現象を。ただそう呼び当てたい。言い換えたい。何を営業しているのか、まあスコラやFretworkの話はする。するがそれが実際の売り上げとかに繋がると思い込んでるのでもない。なにしろ繋がったところで報酬に影響があるわけでも(きっと)ない。目的は、おしゃべりするその楽しさだ。人としゃべることのこのなんと楽しいことか。失敗を多くする。最近はとくに、以前に増して「まともにしゃべれていない」気がする。聞いている人は、もどかしいとかを越えて憤ってすらいるのではないか、と思い、思うことでまたまともにしゃべれなさに拍車がかかる。拍車がかかる、という表現は便利だ。目の前の相手の時間を奪っていると感じる。実際にそうで、自分がそれをされたら大層困るというのもある。時間は有限というがそうだろうか。時間が有限というがと書いたが誰が言ったのだろうか。いずれにしてもそのようにとりあえず前提して生きているとは言える。同時に私の顔のすぐ左右に別の顔があり、同時に3つの文脈で話をするなら構造を説明する必要はなくなるがそれでは聞きづらいだろうし何しろうるさいだろうから顔はひとつで良かったのかもしれない。しかしおかげで3つの(あるいはそれ以上の)文脈を混ぜてしゃべってしまうので何もわからない感じだ。何かに似ている、と思えばこの文章だ。この文章もなんだかだんだん、というかそれは前からかもしれないが、何を言いたい人なのかまるでわからない感じになっているように思わなくもない。いや言いたいことは、あるいはその気分の色合いは、ある程度はっきりある気もするのだけど。
Fretworkといえば、たぶんどうやら穫った。グラモフォン賞を。その、「バロック器楽部門」というものを。
おめでとうございます!!
やった!!!
あとで、その情報を確認したサイトにリンクを貼りたい。
ここで言いたいのは、あまりそれが日本語のかたちで明確に知らされていない様子なので、英語サイトだけでそれを、しかも一人で確認している私には今ひとつ実感をもてない、どころか間違ってすらいるのではないか、と思われることだ。
あまり不安なので、mixi古楽を扱うコミュをいくつか見つけて入ってみたもののフレットワークについて触れているところがわずかにあったほか、グラモフォン賞などについては(まあそれは古楽にかかわらない賞だが)あまり見なかったのでむしろ不安は増した。というかだから、逆にクラシック系で探し直せば良いのかもしれないが。
でもいずれにしても、数日すれば有志の素晴らしい方々がまとめを発信してくれるだろうと期待中。でその一方で、いちファンとしてはそれでいいとしても仕事の人としてそれはマズい。一応受賞したとき用にプレスリリースなどで使うテキストを昨日までにまとめてコモンズに送ってあるのですが、そういうのを含めてきちんとしたいと思い、これがもし私の出生から今までについて書け、という仕事ならウソを含めて何を気にすることもなく書くがようするに世界の誰より多くそれについて知っている(少なくともそのように言ってはみれる)のではないこのようなケースにおいて、つねに不安だ。スコラ3巻までリリースされたのはもしかしたら実在しないロープの上を歩いた綱渡りのようで昔よくあった外国のカートゥーンのように、そのロープがないことに気づくまでは大丈夫なのが気づいたら落ちる、みたいなことになりはしないか。逆がいい、落ちたつもりが大丈夫だった、みたいな。
今日は片山+岡田対談@池袋。詳細はアルテスさんのblogに譲りたいがなにしろアルテスさんのリンクを貼るのも時間がかかる気がする。あとでできればこの辺にURLを貼りますが。
片山さんの文章はまったく映画を見ているようにたのしい!ので直接お話を聞けて率直に言って感動だった。岡田さんは謎に満ちていたので僕にとってさまざまな意味で、だから歩くようにあるいは走るように話されるのを聞けてとても良かった。僕は岡田さんの文章を読んでいるときに建築の設計図を眺めているような静謐なワクワクを感じる。
最後に質問をした、音を聴かずに批評を楽しむ私のような人間がいることについて、ということについて後からさらに考えたが、僕にとってたとえば片山さんの文章はそれ自体がほとんど比喩ではなく音楽である。だからそれだけで充足してしまうのだ。ああ、面白い。ああ、面白い。と読みおえたら、それは次に繋がる可能性もあるが繋がらなくてもべつにいい。もうそれで満足ならそれはそれでいいわけで、それってしかしもっと語られるべき状況ではないか。本当は音楽抜きでも全然いけるんだけどあたかも音楽ナシじゃなきゃだめみたいなフリをしてはいないか、というきがすう。それでもいい、というよりむしろそっちの方が多数派というのが現実なのではないか。だとすればそれはもう音楽批評ではない、批評音楽だ。
それはわからないが。
ズレとか文脈とか比較とか、共有されている前提とか、そういったことについて考えた。批評という言葉は愛とか夢とかいうのぐらいもはや何も指しえないから使わないとしてもその文章、の面白さというのを考えるにつけ不思議だ。片山さんや岡田さんが「この音楽はAだ」とたとえば言ったとして、その文章を読んだところで評者の言わんとすることが「ああ、Aなのね」などとピッタリわかるはずがないのになんかわかったように思ってしまうその近似の様子がしかし一番大事なのかもしれない。重なることが大事なのではなく「なんか何となく似てるねこの辺り」みたいなところのその重なったりズレたりする中間地帯みたいなところに生まれる何かを楽しんでいるのかもしれない。だとすれば、それはやはりつねに作り続ける、ということだ。
失敗している。この罰がすぐそばでやってくる。針のむしろ、という表現を誰が考えたのか。うますぎる。