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言葉は自分の胸に名札を貼り付けるようにしてようやく他人に公開できるもので、一旦貼り付けたらもうはがれない。上からいくえにも重ねたってそれを言ったってことは消えない。きみはそういうことを言った人だってことになるし僕だってそうだ。いいわけはない。受け入れていくだけだ。
ばな先生の居酒屋の話、僕はけっこう前に本で読んで普通に面白かったけど、いつもイライラしている僕みたいな人のかっこうの酒のサカナみたいになってそれこそ残念と思わないでもない。いちばん困るのは、だって、インターネットなんだから本人だって見るかもしれないのに、なんでそんな言い方できるかね、というようなことだ。
活字中毒の人はまあいつもどおりって感じでいいとして(基本的にいい意味で)、いずれにしたってそれは個人の感想文であって原文ではないのだから、その感想文への感想を言っている、という自覚があるのかにゃ〜という気がやっぱりする。文脈、ということが文章には逃れようもなくあるのであって、その本全体、ひいてはばな先生の他作との流れにおけるその発言である、ということはとても重要であるというか重要じゃなくなれない。切り取られた言葉に価値がないのでも意味がないのでもなく、ただ切り取られた、ましてや引用者の感想をたくさん含んだテキストを読んで手軽にムキーとかなってるだけなんですよ俺なんて、という自覚があるのかにゃ〜という話だ。
サイレント・マジョリティというのはあってあーあ、と思ってるだけの人の方がずっと多いとは思うけど、なんかイライラ踊り(いらいらおどり)してる人だけじゃないですよ、普通にそれ読んでる人も僕をはじめたくさんいると思いますよ、と、やはりネットに残しておこうかなって、まあ数百年もすればそんなことする意味なかったねw となるのはわかりきっているが一応いまそれで落ち着く人だってあるかもしれないから書いてみた。