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文脈とダイエットと水風船

さて、残り数分で書けるだろうか。なにしろ時間がない。のだがこれはこのタイミングかと思っているので(とくに理由はないようなものだけど)進めてみると、ここでは何度か言っているように一つの言葉が指し示す対象は一つのものではあり得ず、そこで話題を、つまり二人以上で何かを話し合う際にその話の方向性を左右しているコアなものっていうのは、使われている言葉そのものというより、どういう流れにその話者たちがいるのか、という「文脈」である。
いわゆる空気読めよ、というときの「空気」とはこの「文脈」のことにほかならず、だからそれを読めることは全然悪いことじゃないし読めないことは時にやっぱり迷惑である。「空気読め」という言葉がしかし次第に悪い印象を帯びはじめたのは、結局のところその言葉がいわゆる「一人歩き」をはじめ、つまり「空気読め」という言葉自体が空気を読まれずに、言い換えれば文脈を無視したかたちで使われはじめたから、ということに過ぎないと僕は思う。
日本人がことさら空気読む技術にたけているのかどうかは知らないが(なにせ外国人も外国も知らないのに比べられるはずがない。外国を知らない人が「日本人は〜」とか言うのはそういう歌をカラオケしているだけでそう見れば微笑ましくすら感じられるが)、そうだったら素敵だと思う。文脈を読むのにたけた人たち、コミューン、コレクティヴというのがあったとしてその一員だったなら。
話を戻せば、大事なのは文脈である。だから一部分だけを切り取ってそれに対してあーだこーだ言うのはあまりにお祭り気分だと言わざるをえない。そういう遊びにたけたコレクティヴなのかもしれない。それはそれでかまわないが、それはそこだけで成り立つゆきばのない娯楽に過ぎない。きみの果てしない欲望がそれで満たされるとは僕にはどうしても想像されない。
自分の人生を変化させる何かを望んでいるはずだと僕は僕に言う。それを聴いている誰かが、そうだな、とか、そうでもないよ、とか言ったり言わなかったりするかもしれない。いずれにせよ僕がワクワクするのは「大きな動き」をともなう何かだ。
ひっくり返すことを好きな動物がいて、そいつの目の前に「すぐにひっくり返せそうな何か」を置いておくと、どうしてもこらえることができず、「どうしても」「つい」「ほとんど無自覚のうちに」、ひっくり返してしまう、ということがあったならまさに人間という動物ってそれだ。それをやらずにはいられないのだ。しかし、ひっくり返しやすいものをそうしたときに得られるもの、があたえる満足(=見返り)はけっして大きなものではない。簡単に得られるものは上がりも少ないのだ。大変でリスクの高いものほど、大きな何かが返ってくる(ということにしよう)。ひっくり返しやすいものだけをパタパタ返すだけの人生でいいのか? 誰もがうらやましがるそれを求める時間でいいのか? 本当に欲しいものはなんだ? どんよくな私が、本当の本当に求める、これだけはどうしても外せません! といえるトップ3はなんだろう。

ダイエットの話。食べ過ぎる人は、もはや「食べ物」を求めてはいない。そこには「補償」だけが求められている。これだけ大変な思いをした私なのだから、これを食べきる権利がある、と思っている。食べることは、その論理を裏づけるためのツールとそのときになっている。本来なら、食べることを通して解消する必要はないはずなのだが、さしあたって他にそれ以上の便利なツールがないものだから、とりあえず食べてしまう。酒にしても、人によってはそうかもしれない。
よくよく考えれば、食べないではいられない、なんて体が言うほど食べ物が必要な状況ってそうそうない。量の問題にかぎって考え、そんなにたくさん食べる必要はない。必要なのは、「食べること」なのであって「食べるもの」ではない。「何を」食べるのか、ということは大いに重要だが、それは「食べること」にじつは含まれている。「この私」が「何を」食べるのか、そこに生じる「意味」こそが重要なのであって、その成分やら量やらを、体が実際に欲しているわけではないし、そうだとしてもそのことを実証しながら毎日食べているわけではない。
ダイエットということを考えるとき、まずはこの「行為」としての「食べる」を考える必要があるというか、たんに考えたらほとんどクリアとは言える。先に挙げたように、苦痛の代償としての食を遂行するかぎり過食をとめることは難しいと僕は思う。どうせ代償が必要なら、それを食以外の何かで行えばいい、とも言える。また、食という行為がつねに代償としての側面を持つのだとすれば、それを意識するだけでも、体に過剰な負担をかけることはとめられるかもしれない。日々、あまりにもつらい、苦しい、それはそうだろうが、だからと言って、その代わりを体に押しつけるのはあまりに酷というかかわいそうだって僕は思う。もう食べたいとは思ってないよ、と気づく必要がある。皿にあるすべてを食べる必要は、じつは、体に言わせればまったくないどころか、非合理ですらある。
水を飲めよ、と誰かが言う。その通りだと思う。ある程度ものを食べたら、気持に捧げる分は別の快楽で補償すればいい(たとえば、水を飲むとか)。皿に残った分は明日食べれば、体にも家計にもやさしい。残して怒る人が目の前にいるのなら、その人に差し上げればいい。自分の体を自分で守る必要がある。

言葉を他人に発するとき、最初に思い描くのは、色水の入った水風船を投げつけ、相手の体にぶつかりバシャンと破裂し、たとえば赤い水が相手の服に染みていく。僕は「これを見ろ」「こんなのもあるぞ」と、言いたいことの詰まった水風船を次々と対象に投げつけ、その都度、いろんな色の水が対象にぶつかり色をつけていく。
しかしながら、というかやはり、というか、水風船を投げるところまではそうだったとして、実際には、それがぶつかる先はまぎれもなく自分の体にだけである。相手はまったく濡れないし色づかない。私は私の体に色水を塗りたくっているし、「私はこのように言いたいのだ」と、自分の色とりどりに濡れた体を見せつけて、相手に伝えるよりその仕方がない。名札やワッペンのように考えてもいい。相手に言いたいこと、その言葉は、つねに自分の体に貼り付けることによって伝えるよりない。それが言葉だろう。私の言った言葉は、他人には貼り付かず、自分に貼り付くことしかなく、それを他人に見てもらうことによって、私とセットで、対象の意識にようやく入っていく。
ここではじめて匿名、という問題にもあたってくるが、話者の出自がわからなくても、言葉だけが独立して機能するということはありえない。もうすこし詳しくいえば、「言葉だけ」(=詠み人知らず)として流通しているように思われる言葉でも、実際には、話者があたかも意識されないように見せかけられながら(=実際には意識されているにもかかわらず)機能しているに過ぎないということだ。我々はつねに、ある言葉を受け取るとき、それが「誰の発した言葉か」ということを感じ取ろうとしている。もし、とくに話者が設定されていないのなら、捏造すらして設定しているはずだ。よくある話、「あっち」と指さしたときに、人間なら指された方向を見るが、猫だとその指自体を見てしまう、なんて言うけど、それに置き換えるなら、人間だって「あっち」といったやはりその「指自体」を見たうえで、「どの指」が「その方向」を指しているのか、と考えている。
文脈を無視した議論は放談だと思う。娯楽としてはあっていいだろう。僕も好きだ。でもそれだけでは満足できない。