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そうぜつな日々ya--。数年前の自分に言ったらきっと信用しない時間の連続。しかし内容にかかわらず昔の僕はいまの僕を信用したりはしないだろう。いまの自分を未来の自分に所有物あつかいされることをヒステリックにきらうだろう。たしかにきみはぼくのモノではない。いや、僕の認識を通さなければ僕に現れない現象だって意味では僕のモノでしかないが。それ以外の意味ならやっぱり別物だし、僕が未来の自分による所有をいやがるのはひとえに「今の俺以上にがんばっている保証がない、というかそのはずがない」と思うからだと、たとえば20歳ぐらいのときに(2浪生だった)考えていたことをそのときの自分に無断で思い返せば想像できる。いま私がやっていることや怠惰や大きな失敗、グロテスクな一面などを含め誰が信用するものか、いやその必要もどこにもないわけだが。このすべての時間なりトピックなりを、書き留めてあとから読み返しまた後世の私のような誰かの少しでも助けになったらいいのに、と思うけど無理でログれない。この時間をまたテキストに留めるために味わうなんて私の体力では無理で一回で十分というか一回で十分破壊されている時間と体力。日記もそうだが思い返すことさえ危険でだから関係ないような、今日何があったのか、とかあとから自分が見たってなんのヒントにもならなそうなことを書いている。二度は生きられない人生、というのは客観的にもそうだが希望的にも望まない。時間が、我々がもし170歳ぐらいまで生きるのが普通な動物だったら世界はどうなったか、もっと大変だったか、あるいは大らかだったか、基本的には変わらないか、あるいはその、最大120年ぐらいだったのが一気に170年ぐらいになった瞬間の、変化の瞬間には何かがきっと起こるのだろう、つまりその運動、動きに何かがあるはずで僕はそれを見ている。今日何があり明日何があり今から明日のその時間までに何を終えていなければならないのか、「いなければならないのか」と書いた一行前の時点では完全に忘れているし考えていないその時間(何も考えていないで左手の小指が「A」キーを強く押しているその時間)を過ごすためだけにこれを書いているらしい