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あたらしいPCのキーボードを買いまして、ワイヤレスなので念願の、ヒザの上でタイピング(腿の上か)するようになったのはひとえになるべく体の負担を減らすためで、効果は全然見えてないけどまあやっぱり肩とか腕とかちょっとはラクかも。
もっと、かなり、適当にやりたい。でもそうもいかないね。たいへんだなー。いつもそうなんだけど、いつも、今やってる仕事が一番つらい。これ以上の努力はできない、ってぐらいやらないとヒトサマに出せるものにはならないってわかりきってる。
もっと上手くやれる人はまあいるだろうけどたまたま私がそのソバにいたのだからとやらせてもらって幸運で、で、ありながら、やはり遊びじゃないからつらいという。遊び。遊びのことを考えている。これ、このブログに書いているこの文章は遊びであるが、この文章をもとにしたような仏革の文章はまったく遊びではない。そこにある違いは遊びと仕事の違いだろうか。人生の・・・的な。仕事、とはもちろん言葉だから、それが指し示す対象はどのようにも変わる。私がここで言っている意味でのそれについて私は言っている(間違えようのないトートロジー)。ゲームということについて言えば、TVゲームというかポータブルなやつ、いま一番流行ってる的なそういうものに、私は全然触れたこともなければ触れようと思いもしなかったけど、それはどうやら「だって、時間がもったいないじゃないか」と感じていたからだとさっき気づいた。そしてそのように考えてくると、ではもったいなくない過ごし方ってなんだろう、という疑問が不可避的に出てきもする。無駄でない過ごし方・・・それってそれこそ仕事とか、なんかクリエイティブ的な何か?いやいや、そんなの受け手によってどうとでも変わっちゃう。ゲームとそうでないものとの間にある違いなんて、そんなにナイのかもしれない、とそれで思えてくる。何を無駄だと捉えるかっていうのは人によって変わるのだ。各人の中に生じている感動的な何か、それ自体はそんなに大きくは異ならないかもしれないし、どれも異なる、という点においてやはり違わない、ということがあるかもしれない。
私が思う、「え、それのどこがイイわけwww???」というものによって満たされた気分になる人と、私が思う、「これって・・・イイよねえ(溶)」的なものに触れているときの私がいて、そのとき双方の内部に生じているものの同型性について考えている。
仕事、のことを考えている。それは、自分からやりたいなーと思ってやるもののことではここではない。自分から望んでやるもののことをここでは遊びと呼ぼう。責任をのがれたい。何もせずに、構造だけを見て気の利いたセリフを言って悦にいって過ごしたい。いつまでも、午前中から次の明け方までビールを飲んで音楽を聴いて体を揺すってさまざまなことを思い出したり描いたりそれをくり返して笑って過ごしたい。
仕事があることは幸運であり、それは何かに似ている。恐ろしい事態におそわれることを想定している。その前に責任を果たせたらと思う。私はそこにいない。誰かがそこへ入ってきたときに、最低限の準備ができているようにメンテナンスをほどこしておくことが私の仕事だ。それは遊びではない。偶然に決めつけ押しつけられた義務に近い。何もできない。それが前提だ。そこからしかし、1ミリだけ重心をズラしたい。そのことが次の1ミリを呼び込むだろう。踏み出された足がバランスを突き崩し、倒れるまでは動くだろう