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未来のいつか/hyoshiokの日記:質問力
http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20090306#p1

間違ったことは書かれてないし、「そもそも全部は書いていない(あくまで問題提起まで)」的なエントリーだと思うので議論を深めるために書くのだが、「グッドな質問を提供する」ということと、「質疑応答の場で挙手する」ということはあまり関係ないと思う。
前者はときどき後者に含まれるが、後者は前者の必要十分条件ではない、という程度の関係だろう。
仮に「日本人」がなかなか自分から質問したがらない人たちなのだとしても、その「日本人」的な性格を変える以外に悪い状況を打開する方法がない、とはもちろん言えないし、むしろ「質疑応答」というあまりにも古風で原初的なシステムの方を見直しましょう、という方向でどれだけの検討がなされているのか?という疑問が湧いてくる。

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グッドな質問がグッドな状況を生み出しうる、という見方は妥当だけど、グッドな質問はたぶん「大勢の他人の前で挙手する」という以外の方法でもできるだろう。
「グッドな質問をしてほしい」という誰かの願望と、「質疑応答で挙手できないような人は性格を変えた方がいい」という誰かの傲慢とはそれぞれ独立して存在している。(急いでつけ加えるが、そのような傲慢さは私の中にも普通にある)
そもそも、複数の知らない人たちの前で発言することに対して抵抗を感じる、ということが、変えなければならないほどの問題だろうか?私には、それって人間としてごく自然な反応に思えるし、そのことによってもたらされるメリットも少なからずあるように思えるのだけど。

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思うに、我々が本来なすべきことは、質疑応答の場で発言したがらない人が人知れず抱えているグッドな質問を、その質問の持ち主の性格にかかわらないかたちで引き出すこと、あるいはそのための方法を探していくことなのではないだろうか?少なくとも、そのように考えていった方が建設的なのではないか、と私は思う。
だってそれなら、他人を変える必要がない。状況を変えたいな、と思った人自身が頑張ればいいだけだ。
私は、自分の願望を成立させるための必要条件として、「他人の努力」を折り込んでしまうのはあまり良くないことだと思う。
「海外では、みんなどんどん質問するんだよ」と誰かが言う。ああ、そうなんだ、と私は思う。きっとそれにも良い側面がたくさんあるんだろうね、と。
でも、性格の違う人たちに同じやり方を適用し、それが上手く機能しなかったときに変更すべき対象は、「人」だろうか?それとも、「やり方」だろうか?
もし、いまの「日本人」がある種の性格を持っているなら、それはとりあえず保留というか肯定というか残しておいて、「やり方」の方を変えてみるというトライはどうかと言っている。私がほしいのは、性格をチェンジした新しい日本人ではなく、グッドな質問が巻き起こすグッドな状況なのであり、それは元記事の論と矛盾しないと思うので「補足」と言っている。