103

サイドバー、ちょっと変えた。なんかゴチャついてたので。
作業が本格化してくると、というか今そういう時期だっていうだけだが、blog書く人格が見当たらなくなってくる。べつに誰にも頼まれてないのでやめりゃいいのだが、なんとなく判断してる。

    • -

いろんな、単純なことに気づく。上手くいったことが、今日は多かった。胸の踊る連絡も入った。生きていて、まだ、よかった。しかしこれも一瞬の夢かもしれない。そうじゃないとは誰にも言えない。
明日も、うまくいったらいい。現状維持でいい。しかしそうはいかないだろう。いろいろ気づいて、それをすぐ忘れる。失敗には、もう飽きた。失敗は、し続けるだろう。新たな失敗がいい。新鮮な、前より大きな。もう、同じのには飽きた。同じ場所には居たくない。他人には、とくに知り合いには、もちろん仕事先には、迷惑をかけたくない。自分が恥ずかしいだけなら、恥ずかしい! といって困るのは俺だけだから、それなら、よく考えれば、じつは困る理由はどこにもない。困るのが俺だけなら、俺は困らない。誰に、申し訳ないというのか。自分に? 自分とは誰か。俺が恥ずかしがるのが問題で、それを出来ないというなら、俺のせいにしなくておk. やればいい。他人に迷惑をかけるというなら、やっちゃダメだが、そんなことってそうそうあるまい。大半は、誰にも請われない自粛だった。
明日もうまくいけばいい。でも、無理だろう。考えつづける必要がある。基本、ダメだが、ちょっとはマシな。
言葉は必ず間違える。言葉以外のものをそれにしている時点で無理がある。しかし、それしか使えるものがない、という状況もある。それは、負けつづける賭けに似ている。また外した、と私は言う。しかし、次こそは当たるかもしれない、とまた買う。今度のあいつの言説は相当キテるぜ、と言う。しかし数年すれば「ありゃウソだったな」となる。今度のあいつの言葉こそ信じられる、とまた買う。それは、しかし、いくら消しても消えきらない鉛筆の跡のように、全部ウソ! ということにもならない。言葉は間違えるが、そのあり方にはそれぞれの独自性が見られる。