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とあるニュースサイト(風の個人サイトなのか)で、とある小説家がとある事について「激怒」した、とか書いてあって、そんな・・・普通にウソじゃん・・・と脱力。怒ってもないし、ましてや激しく怒してもないし。
もちろん、「いや、私はそのように感じたのでそう書く。私のサイトなので勝手にな」という姿勢はOKだけど、あんまりにも直球でウソを表題にしているので驚いた、という感じ。あるんだー、というか、ないわー、というか。ある種のタブロイドやなんかが意識的にそのスタイルをとるように、そこもそうしてるのかな。あとはまあ、方法はどうあれヴューを稼ぐのだ、食うためにな。ということかもしれない。
言ったこととか書いたこと、というのは、自分の体に貼りつくものだと最近思ってる。ペタン、と人は喋ったことを自分の胸に貼りつけている。誰かに向けて放った言葉は、そのまま相手にぶつかるのではなく、一旦自分に貼りついて、貼りついた胸ごと相手にさらされることで伝えられる。一度貼りつけた言葉は、たぶん消えない。その脇に赤字で訂正を入れることはできても、言ったことは消えないという気がする。ただ、それがその後どれだけ人の間を行き交う言葉になるか、ということは内容によって異なるだろう。内容とは、言葉だけが遊離した状態を指すのではなく、発せられた時代とか、誰が言ったのかとか、そういうこととも関わるものだと思われる。
どうも現状、人は自分の言ったことによって周りが変化するものだと、無邪気に思い込みすぎてはいないだろうか。その発する言葉によって、簡単に影響を及ぼしうるものだと。そして、その「変化した周囲」によって、間接的に自分も変化する、というようなことを求めてそうした言葉を発してはいないだろうか。おお、あんなことを言うアイツは神だぜ! と言われて神になった気になれる、というような。
しかし大丈夫、言った段階でその人はもう変わっている、「そんなことを言った人」にもう変わりました、というのが実際ではないかという気がしている。もちろん僕にしても、こんなことをつらつら書いた人、というネーム・プレートみたいなものをつけた人になっている。