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ここ数日のうちに、たまたま(だと思うんだけど)知り合いについて書かれたわるぐちみたいのを立てつづけにネットで目にした。そういうのって、面白いのでつい読んでしまう。自分から探すわけではないのだが、そうやって対象が知っている人だったりするとより想像力が発揮されてしまいつい、というか。しかしこれがやはりひどい。しかも4人ぐらいの知り合いについて、それぞれ別の場所で別の人がそういう記事を書いている。なんだ、そういうムーブメントか。ないしブームか。disというよりもうクダ巻くというか酔っぱらいが絡んでるようで何ともいえない気分になるが、まあ自由といえばそうだしそもそもイヤなら読まなくて良いわけなので、べつにそれに対して文句を言っているわけでもない。
しかしいずれにせよ、批評というか感想というか、そういうのって、言及の対象よりむしろ発話者を表に出していく装置、みたいなところがあるんだなと思った。そういえば以前、橋本治さんもそういうことを言っていた、ということをここでも書いた気がするけど(批評は自分をさばく、小説は周りをさばく、的な何か)、ああこういうことかって思ったのは今だ。
批評なり感想なりの対象となる作品自体は何年経っても姿を変えないが、その評価というのは刻々変わるのだろう。仏革とかはかなり結果的にだけど、たしかそういう前提でつくった。やうやうそう考えると俺は本当にそのとき結構がんばったな、と思う。今の人たちをないがしろにしたのでもないが、今だけの目では見ないようにしたというか。まあそういうことを言っている目はもちろん今だけの目でしかないのだが、そうでしかない、という自覚をもつようにしたということだろうか。もう何ヶ月も経って本当は忘れているが。
話を戻しつつ具体的にいえば、たとえばAという作品なり作家に対して誰かが「これはひどい」と言ってみると、それは同時に、その発話者が「Aをひどいと言った人」であることを示している。当たり前なんだがどうもここは意識されづらいという気がする。その「ひどい」という声と同時代に生きていると、どうもその声の方が不動で普遍であるように感じられ、批評なり感想なりを言われたAの方があたかも形状なり本質を変化させて「ひどく」なったり「良く」なったりするように感じられてくる。だが、実際にはAが動いているわけではなくて、その周りが「ひどい」とか「良い」とかいいながらフォークダンスのようにグルグルと回っているようで、批評家なり感想発話者なりが言った「Aはひどい」(ないし「Aは良い」)といった言葉やその事実の方が、また不動の作品として姿をとどめていくようだ。
ありきたりな喩えだが、天動説とか魔女狩りとかのことを僕は思い出す。天動説とか地動説とかいう話で人々がゴタゴタしているあいだに、地球と太陽の関係性が変化していたわけでは(たぶん)なくて、どっちが中心である、と紛糾している人間の方がフラフラしていたわけだ。あの女は魔女だ、と言われた人が人間と魔女を行き来していたのではなくて、周りの方が特定の人間を魔女だと言ったりそうでないと言ったり変わっていたわけだ。ブフォン論争というのがあって、ある音楽と別のある音楽の、どっちがすぐれているか(どっちが劣っているか)、という今から思えばどうかと思う論争があった(らしい)けど、結局歴史に刻まれているのは、どちらの論理が正しかったかというその話の中身以上に、そんなことを言い合ってる人たちがいた、という状況自体の方ではないか。
何かについて言及するときには、つねにそれを言う自分の方がクリップでとめられるのだ、という認識があると面白いかもしれない。言及の対象は、自分の言及ごときで形状を変えたり本質が変化したりはしないのだ、という自覚が。もし変わるものがあるなら、それはやはり、その対象を自分同様に取り巻く他の人々が、対象に対する見方を変えるという仕方で発話者との関係を変えるということだろう。まあ潜在的には、批評家なり感想発信者というのはそれをこそ求めて発言しているのかもしれないが。