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 日常の話ですが、昨年からずーっと借りていた本を返しに図書館へ。群像1月号の貸し出しが始まっているはずで、石川忠司さんの論考が載っているはずだったので楽しみにしていったら、1月号はおろか、かたっぱしから文芸誌の近いバックナンバーがなかった。むう、小説家志望のしわざに違いなし。なんだー残念。その分、というか、じっくり探してしまったいろいろ。背表紙を読んでいるだけで、本を読んでいるような気になる・・・のではなくて、実際にかなり背表紙の段階で「読んでいる」。本っていうのはかなりポータビリティ(持ち運び性)の高い、音楽であり映像であり思想(というのは喋りの面白い人、ということでも良いけど)だと僕は思っていて、それはCDやビデオを持ち運ぶよりずっと手軽かつ現実への浸透力が強いとも思うのだが、そうか、背表紙の段階ですでに音や画像や声を聴き取ってしまっていたのか、感染、だなこれは、とどこまでもつづく棚を眺めながら思った。
 何でも知りたい、というのは向学心とか志向性、とかいう側面には収まらない、支配欲、ということに繋がっていて(と、内田センセイも日記で言っていたが)、それを受け入れても尚あまりある魅力がやっぱりそこにはある。誰もが読む本だけを読んでもつまらないが、誰もが読む本を読まないのもつまらない。つまらない、というのはここでは死ぬことに近い。
 明日は後藤スクールの打ち上げのような新年会。昨年行われたコバンザメ的卒業制作企画の報告と清算も兼ねて。小冊子を30部刷って、一人一律4000円也。安っ。しかも僕はそこから売り上げ(の一部)をもらえるので、もう少し安くなる目論み(というか)。会場は新宿のアノ台湾料理屋。なんで後藤つながりでまでアノ店に・・・そんなに回る台が好きか。