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 夜7時から大谷さんのレクチャー@青山BOOK246。このイベントも5回目を迎えてかなり場がいい感じにコナレテきた感じ。テーマは宮沢賢治で、最近僕はこの人にまじでちょうど興味を持って来ていたところだったのでジャストフィット。というか、質問ではできなかった一つのトピックが問題として以前からあって、その話は時間の関係もありできなかったのだが、宮沢賢治の凄さというのは、今流布されている範囲にはあんまりないのではないか、というのが僕の直観で、勿論研究者はその僕が直観で捉えている凄さをキャッチしているには違いないのだが、というかキャッチせざるを得ないはずだが、でも結局宮沢さんの土着的というか包み込む風呂のような教祖的オーラに覆われることの快楽の方を選んでしまって冷静な判断が失われていて、僕の捉えた、つまり、ソリッドで人間感覚の薄い魅力、というのが紹介されきれていないんじゃないか。
 宮沢さんはおそらく、我々受け手を全肯定してしまう、演歌的な強烈な快楽を誘発するところがあって、その分、深くをきちんと理解されないままに受け入れられている。受け入れられながら、深い(というか別の、本質的な)一面も受け手の皿にとぽとぽ注がれてそれもアピールを見せはするのだが、結局その受け手がまた「どこが良いんですか?」とか聞かれたときに口にしてしまうのは、自分が受け入れられたことに対する喜びだったりするんじゃないか。
 自分が認められて受け入れられて、それまでの過去のアナタはOKだったんだよ!と、言われることに勝る快楽(喜び)が、どれだけあるだろうってぐらいそれはやっぱり強力だし間違ってもいない。今のアナタは惜しい、でもこれとこれとこれをインストールさえすれば必ずコレになれるでしょう、というデジタルな様子で機械化を志向させるハウ・ツー・カルチャーよりマシなんじゃないかとさえ思う。が、それは正解であるがゆえにイージーじゃないか。ハウツーもいやだがイージーもいやだ。もっと、わからないのが良い。綺麗で、未定で、カッコいいのが良い。無情で、無私で、無臭なのが良い。で、おそらく宮沢さんにはそれはある。もっとずっと、奇行とかいうこととはまた別に、地味な奇妙さがあるはずで、そういうのを読み取ることはたぶんできるのだが、それを許さない何か、というのが、彼自身のアンビバレンスとしてあるのかもしれない、ということを今日のレクチャーを聞いてちょっと思った。より本質的なディグりを阻害するのはつまり、宮沢さんのファン、とかではなくて(そんな気も普通にしていたのだが)、もっとなんか、彼自身が持つ生来の性質、みたいなところにあるのかもしれない。とかそういうことを考えた。