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 前エントリーにも書いたように、昨日は青山スパイラルへ。内容はやっぱりアート系で、京都造形大学の卒展がメインなのだった。夜7時からはそのオープニング・レセプション・パーティーがあって、造形大の学長や後藤さんや市原研太郎、榎本了壱、エトセトラーエトセトラー(敬称名称略します)といった錚々たる面々集まり。
 僕はといえばそれには全然関係ないので、開会の1時間ぐらい前に到着して、後藤事務所スクール担当氏と近くの喫茶店(それはいつものスクール教室から歩いて3分ぐらいのところだったのでなんかちょっとシュールだったのだがそのシュールさを上手く言い表すことができない)で、いろいろ喋る。基本的にはすんなり進むが、決定的に「あらー」と思ったことがあって、それはスクール用のブログに書いたのでいずれアナウンスするかも。
 「あ、あと10分で開会してしまうので(レセプションが)」という担当氏の言葉にゆり起こされるように打ち合わせを切り上げ、「後藤もあとで時間作れると思うので」と誘って頂いたので、別にこの段で後藤さんと打ち合わせることもとくにないと言えばないのだが、スパイラルで行われるアートっぽいイベントのレセプションというかようするにオープニングパーティには非常に興味があったので、節操もなくひょこひょこついて行く。Aさん、本当に本当にありがとうございました。むちゃくちゃ楽しかったです。つい先日ご挨拶できた京橋のPUNCTUMギャラリー(http://www.punctum.jp/)の寺本さんもいらっしゃっていて、お話できたのが嬉しかった。それからそれから、その繋がりでまたいろんな人と初対面したり意外な繋がりに驚いたりするという普通の奇跡も体験する。レッツ・ゲット・パーティー・・・。
 時間をギュルギュルと戻して担当氏の後について会場に入ると、無料のトークショーのようなものをやっていて、そこでは卒業生のうち作品を選抜されてはるばる京都から作品と共に東京へやってきた元学生さんたちと、OB・OGであるやはり京都造形大卒業生ネームド招待作家さんたち数名が、さらに市原さんや後藤さんを交えてピョロピョロと喋っているような感じだった。しかし会場のあり方が何だか殊にひどくって、果たして誰がディレクションしたのかこのトークショー、観客にとっては超見づらいことこの上ない。なんだ、これ?誰のためのアートっすか?と、この時点でイヤな予感がちょっとする。それは的中もしなければ間違えもしなかったのだが、まあこのトークショーの段取りと会場の作品の設置の仕方にはかなりどうなのか感があって面白い。まあ、悪く言うだけなら誰でも出来るのだが。ね。
 では、と声があって、学長の挨拶、後藤さんの挨拶、どういう経緯なのか榎本さんの挨拶などがあって乾杯。それにしても、自分が主役でない場のスピーチで別の場で行われている催しを宣伝するのはやめませんか、先生。え、営業?という気もするが、アート繋がりで、ということなのだろうか・・・それとも俺がイライラしているだけなのか。うん、そういう気もする。でも、やっぱり違うだろう。愛がないんだよ。と、そんなことはそこいらじゅうで感じたのだが昨日は、でもそれにしたって何でこんなガチガチに抑圧的なのか、この催し。か、金か?お金が絡んで、思いきった間違ったことができないのだろうか。何でこんなに風通しが悪いのかな。うーん、アート・・・。1ミリだって、場の不文律から外れることは許されないって雰囲気だ。高齢の先生方が集まっているというのに、イスひとつだって出てやしない。出てないのは構わないのだが(構うが)、とはいえ会場の脇にほら、積まれてさ、あるのだから、誰だって疲れたならそう言って使って座ったらいいのだ。でもそんなことは起こらない。元からある、場の不文律に従っているのだ。いや、別にいいんだけどさ、でもそういう意味では我々は、まるでそういう特殊能力が備わっているかのように「空気」に敏感である。
 システムや構造、まあ社会ということだが、そういうものは、必要である。混沌?混沌から生まれるものなんてない。社会やシステムのルーティンが逸脱を要請するのだ。我々に本当に必要なのは、各自にとって最適な社会なのだ。社会、構造、律するものの存在をなくして僕らは生きられない。評価や相談が、必要なのだ。他人が用意したシステムであってさえ、無いのに比べたらずっとマシかもしれないぐらいだ。重要なことは、それが、自分に適した文律であるかどうかってことだ。システムは必要だが、社会は必要だが、それが自分の体質に合致しない、拒絶反応を強く引き起こすものであったなら、その社会は彼にとって相応しくない。重要なことは、各自に合致した社会を、各自で見つけ出し作り上げ磨き上げることだ。アートって、そういう作用を促すものだって気がしていたが、誰もそんなことは思ってないのか声が小さくて届かないのか、たった一つの偏狭な雰囲気から服の裾一枚ハミ出ないようにその中にギュウギュウに押し込まれて何も間違ったことを言わないように、関係のない話ばかりをしようとしている。化けの皮が剥がれないように、だ。それって俺のことか?うん、そうかもしれない。でも、君のことだけじゃない。アートをめぐるエトセトラーの話を、僕はしている。
 そういえばほとんど唯一、金田良(かねだ・りょう)さんという男子の作品だけがまともだった。いや、言い直そう。伊藤さんのも井口さんのも小林さんのも良かった。ちょっとどうかと思うのも勿論あったが、それは個人の好みレベルに還元できる話かもしれない。つまり金田さん以外の作品が悪いってことじゃなくて、他の作品にも良いところは沢山あったのだが、(というか、なんにせよ生徒さんに責任はあんまりない。大人と先輩が悪いのだ。あいつらがアートから作家を引き剥がそうとしてるって気がする・・・と、イタズラに対立構造だけ設営したってしょーむないのだが)金田さんの作品には一番、スジが通ってるって気がした。アート以外のエオツェトラーに向かう「さもしさ」がない。技術やプレゼンのレベルは、つまり仕上がりの辻褄合わせみたいなものは高いものじゃないかもしれないが、そんなのは、時間をかけたら誰にでも出来ることだ。いや、筋の通った作業にしたって、本当なら誰にだって出来るのだが、あんまりにもそれが当ッたり前のことだから、多くの作家はそれを忘れてプレゼン直前の辻褄合わせを重要視してしまうようなのだ。終わり良ければすべてよし、ッッッかあ?エンディングだけ決まったらそれでOKなんて、みんなでそれやってどうすんだ。いやまあ、それはそれでいいのかなあ・・・な、わけないって。ね。・・・ねえ?
 スクール用ブログにも書いたが、結論を急ぐからひどいことになる。もっとゆっくりやったらいいのだ。間違いを前提にして、誰にもえばらないで、きちんと足元から掃除して周りをキレイにしていったらいいのだ。