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 ひさしぶりに何もしなくていい日、つまりお休みの今日。午前中から昼すぎにかけてグターと読書。夕方になってふと正気に返り、涼しかったのに気付いたので、庭に伸びはじめたドクダミなど大量の雑草を抜いてみる。目立つところからばしばし作業を進めていくと、最初には見えていなかった小さな雑草が気になってきて、これってまさにフラクタル。じゃんじゃん細部が見えてくるサマは静物デッサンそのもので、というか書き(聞き)起こしもそうだし、人生における諸活動だってそうなのかもしれない。最初に大局的に見えたものと、馴れるに従いわかってくる局所的な細部との関係。それはどちらも大切な要素なのだ。
 といったことを、僕は美大予備校に通っていた頃からずっと考えさせられてきたような気がする。大学に入ってからしばらくそれを忘れていたが、卒業制作に至って、またその後、装飾塗装というちょっと専門的なバイトをやってる時にもそうで、それからまたしばらく忘れてボーッとしていたが書き起こしを始めてまた思い出した・・・というか、思い出すたびにより強くそのダイナミズムのような重要性のような普遍性のようなものを感じさせられている気がする。大局的な見方(受け取り方)と、局所的なそれとの両立・・・。ふと気がつくと、そういう意味では僕は何だかずっと絵を描いているんじゃないかとも思えてくる。
 ところで昨日は友人宅で、それとは別の友人のCD作成に関するかなり最終的な打ち合わせを緊急にする。というか呼び出される。僕のライナー(というか)も最終チェック。もう直せません。だって今日から印刷だから。チェックが済んでからかるく打ち上げる。といっても、プリッツを食べながら発泡酒を飲むだけだが、3人で友人が好きだった音楽やビデオを観ながら時間を過ごす。このメンツだといつもそうなのだが、とくに話は弾まず、くいくいビールを飲んではたまにポツリと呟いて何か笑う。僕は最近とくに、普段において余り飲まなくなったので、たまにこうして飲むとその瞬間においてさえ何だか疲れてくるのだが、それも含めて貴重な時間ではある。みな、というか僕と彼らでは興味の対象も日常の生活世界もぜんぜん(と言ってもいいだろう)違うので、「そうそう!そうなんだよ!!」とかまったくならないのだ。そしてそういうことが何と言うか、その疲れも含めて、時には必要なことな気がする。