103

 014

大谷能生フランス革命第1回(ゲスト:映画監督の冨永昌敬氏)のテクスト版(コレこれ)註釈ページ()で登場して頂いた素晴らしい映画サイトがガツンと更新されていたので、お知らせします。新トピックのテーマは 第2章−サイレント黄金時代(23)『完全無欠のスーパーヒーロー〜尾上松之助〜 』。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/23MATSUNOSUKE.htm
世の中には(という前提が本当は間違っていて、世の中はこの際全然関係ないのだが、)凄い人がいるものだ。僕とほぼ(或いはまったく)同い年で、しかしこれだけの作業をとくに知られているわけでも知らせようとしているわけでもない。
僕が仏革註釈で紹介したからといってそれが作者にとってどうなのかもわからないけれど、でも新たにこのサイトを知って喜ぶ読者は確実にいるだろうから、註釈でだけでなく、ここでも紹介する。ちなみに第1回の註釈はこの前故あって読み返したら読みにくい部分が多々あったので、近く直したい。
さて、このリンク先本文の冒頭に登場する以下の話題は、シンプルであるが故に興味深い。

 昔も今も、時代劇を好きなのはお年寄りだと相場が決まっている。なぜお年寄りは時代劇が好きなのだろうか。小学生の頃の僕は、年寄りは古いものが懐かしいからだ、と思っていた。だが大正7(1918)年生まれの祖父がリアルタイムで侍を知っているはずがない。
(略)
 では、本当はなぜなのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、古い時代を生きた日本人にとって時代劇が、今の我々以上に身近な存在であったのだろう。浪曲、講談、歌舞伎、あるいは大衆文芸と、僕の祖父を含む我々の先祖は、時代劇を身近なものとして幼少より吸収してきた。つまり時代劇は日本人の体に染み込んでいるものなのだ。もちろん、現在のように娯楽が多様化してしまっていては、今の若者が年寄りとなった時に時代劇が生き残っているかどうかは疑問だ。だとすれば、大変残念なことである。

言われて気が付いたが、そうなのだ。年寄りは時代劇を見る。見るのだが、考えてみればお年寄りが子供の頃にだって、「越後屋」や「お奉行さま」や「峠の茶屋で休むお侍の御一行」がいたはずはない。お年寄りは、自分の過去を懐かしんでいるわけでは多分ないのだ。
それで思い出すのは東大講義に大友良英さんがゲストに来た時の話で、そこで大友さんは自分が影響を受けたものとして阿部薫と『ノー・ニューヨーク』を挙げるのだが、それを聞いた菊地さんがこんな話を振っている。

菊地「この二者ね(『ノー・ニューヨーク』と阿部薫)、時差がどれくらいかってことを言ってあげるといいと思いますよ」
大友「阿部薫はね、大してないんだよ」
菊地「ないんだよね」
大友「阿部薫を見たのが・・・17歳ぐらいで、『ノー・ニューヨーク』が19か20ぐらいかな」
菊地「ここらへんね、音専誌なんかで勉強してる子たちには、 20年ぐらい離れてるって印象があると思うんだよね。でも実はね2,3年しか離れてないんだよね」

これと同様に(構造としては逆だが)、僕は「お年寄りの過去」と「時代劇の中の時代」を、(これも冷静になって考えてみれば馬鹿みたいとしか思えないのだが、)ほとんど同じもの、或いは同じぐらい遠いもの、もっと言えば、同じぐらい自分とは関係ない、という意味で同じものとして捉えてしまっていて、しかしそれはあたり前だが全然違う。
その上で最初の引用部後半をもう一度読んでみると、

僕の祖父を含む我々の先祖は、時代劇を身近なものとして幼少より吸収してきた。つまり時代劇は日本人の体に染み込んでいるものなのだ。

とあって、これを受けてあらためて考えてみると、つまり時代劇の登場人物やそれにまつわる事象というのは、ある種の人々にとってのある種のファンタジーを体現・媒介させるにもっともふさわしいメディア、キャラクターだったという事なのかもしれない。
またそれを演繹して考えれば、時代劇のキャラクターというのは、そうしたメディア(キャラクター)としての力自体は失っていないのかもしれなくて、ただ、僕ら(時代劇を見ない僕ら)がそれを発見していないだけなのかもしれない。
とはいえ時代劇のキャラクターが持つハンディはと言えばどうしたってあの髷(まげ)頭の滑稽さだろう。あの顔をつき合わせて互いに突っ込みを入れないシチュエーションは笑い飯のネタのようにあまりにもシュールであり、そのシュールさを認めながら話が展開するのなら、それはもはやメタ・ドラマである。メタ・ヒストリカル・ドラマである。メタ・コメディカルヒストリカル・ドラマである。
その点をかいくぐって滑稽でない、本当にカッコいい時代劇キャラクターとして現代に通用するメディアをもたらしてくれたのは『三匹が斬る!』に颯爽と登場した役所広司だが、その後を受け継ぐヒーローがいないように感じるのは、やはり僕があの髷に突っ込んでしまいその向こうをチェックする気になれずにいるからだろう。
とはいえ、それでも時代劇を有効なメディアとして用いる機運はあるかもしれなくて、役所広司がそうしたような、現代しか見ていない僕らにも届く時代劇キャラクターに目を向けたのが今日発表(のはず)の岸田戯曲賞にもノミネートされた長塚圭史さんの『桜飛沫(さくらしぶき)』なのだろう。
長塚さんが『桜飛沫(さくらしぶき)』に託した何かについては、岡田さんを観る為にバイトと被っていたから録画したNHK『芸術劇場』のインタビューを見ただけだが、やっぱりそこにある「それでも、いいものはいいのでは」的な底力への着目があるようで、それについて語っているかどうかは知らないが、そんな長塚さんの『桜飛沫(さくらしぶき)』に関するインタビューを見つけたのでご興味のある方はどうぞ。→http://blog.eplus.co.jp/etheatrix01/2005-11-22
さあ、岸田賞はどうなりますかねー。
ということで、あらためて最終候補作は以下。選考会は本日午後4時より。

岩崎正裕『音楽劇 JAPANESE IDIOT』(上演台本)
小里 清『アルバートを探せ』(上演台本)
佃 典彦『ぬけがら』(上演台本)
長塚圭史『LAST SHOW ラストショウ』(上演台本)
東 憲司『風来坊雷神屋敷』(上演台本)
前田司郎『キャベツの類』(上演台本)
三浦大輔『愛の渦』(上演台本)
本谷有希子乱暴と待機』(上演台本)

詳細は公式サイトをどうぞ。『白水社岸田國士戯曲賞』→http://www.hakusuisha.co.jp/current/kishida_senkou.html