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 オープン&コメント日記の理由を考える

窓を開け放していたら、そこからポンポンと家の中へ何かを放り込んでくる奴が絶えない。
窓が開いているのだから仕方ない、という考え方もあるし、実際そのようにして投げ込まれたものを屈んで拾って拡げて見てみると、中にはなかなか面白いものもあるからといって、ついついそのまま家から出ずに次は何が放り込まれてくるかを期待して待ったままになってしまったりする、というのもある。


でも、ちょっと考える。
そう、確かに僕の家の窓は開いている。とはいえそれは、物を放り込まれやすいため、ではなかったはずだ。
物が欲しいと思ったら、僕は家から出てそれらを、何かわからないそれらを、ただ探しに彷徨するだろう。
僕の家の窓が開いているのは、そこから誰かが僕を覗き込んだとき、僕のやっている事が見えるようにするためだ。
オープンにするということは、何でも入って来れるようにする、という、僕の持つ受像機としての性能を高めることではなく、発信機としての性能を高めるための開け放しを主に意味するのだ。


さて、これが何の話かというのは簡単で、TVなんかもう見るのやめなよ、という話ではなくて、ミクシィ日記をこうしたコメントにぶら下げる形式にした効果の話である。
僕はミクシィにもマイミクシィさんにも何の恨みも含むところもないけれど、やはりミクシィ日記を更新し続けることには大きな違和があって、それは単純な「嫌」とはちょっと違う。嫌ならやめたらいいだけなのだ。


ミクシィ日記を更新すれば、それはマイミクシィの方々のトップページにお知らせされて、そのリンクをワンクリックすれば、エントリーへ飛ぶ事が出来る。それはじゃあ悪いことだろうか。全然悪いことじゃない。でもちょっと、簡単すぎる。簡単すぎるし、そこには「判断」がほとんど介在していない。
読者はあたかも、自分で選択してその日記を読んでいるようだけど、でも実際はそうでもないだろう。それはTVを点けていたらとくに見たいわけでもないCMが入ってきたり、目当ての司会者がいるからといって見ていたら知らないゲストが出てきたりした際に、それをとくに望んでいないのにも拘わらず半強制的に見させられてしまっている状況に近い。同じではないけれど。何というか、そういうのがちょっとオカシイな、と思ったのだ。駄目とかいうのではなくて、勿体ないというか。時間が。
それで、少なくとも僕自身に関しては、そういう「イラないCM」みたいな日記をリリースするのはやめようと思った。というか、しょうもないメモ自体を垂れ流すのをやめることは僕には出来ないので(しかもそれは、見てもらうことを前提に書かれざるを得ないのだ)、リリースの仕方を考える事にした。僕は少なくともしょうもない内容のその日記を、とくに見たいとも思っていない人は見なくてもなるたけ済むような方法として、コメントぶら下げ日記を始めたんだと思う。


果たして、それは今のところ成功しているように思える。一日のアクセスは随分減ったし、それでも見に来てくれているのが誰か、という事が逆に非常によくわかるようになった。「そんな風に把握されるのって、ヤダ」と思う人もいるかもしれないし、というか僕だったらヤダかもな、と思わないでもないけれど、嫌ならそれでも構わないのだ本当に。
と言っても、それは「あー、関心を持たれなくて嬉しい。」という意味では全くなくて、「見たいと思ってない人は見ていないんだな」という事実に対する、奇妙な安心感である。このように書いてみて思うのだが、つまり、「とくに見たいとも思ってくれていない人に見られている」という状況は、何だか不安じゃないだろうか?(同調は求めないけれど)
確かに一方では、図らずも目にした記事がきっかけになって、それが後々の大きな何かに繋がるという錬金術的な展開というのは往々にして世の中にはあるし、そういうのって素敵だなとも思うが、しかしその一方では、その「もしかしたら」が、連綿と続く退屈の要因となっていることも否定はできないし、僕にとってはそのデメリットの方が、メリットとしての錬金術的側面より余程大きく感じられる。


言うまでもなく、関心を持たれなかったり、誰も僕のページを見に来てくれなくなってしまったら(つまりリピーターがいなくなったら)、それは寂しい。でも逆に問えば、見られて然り、という程のことも、特に書いていないのだ。
もし、どうしてもこれを貴方に、乃至みんなにお知らせしたい、お届けしたい、と思ったなら、僕はそれをミクシィ日記になんて書かないだろうし、書いたとしても、コメント日記になんてしない。だから結局のところ、現在ミクシィの日記欄に書いてるような事というのは、このようにわざわざワンクリック以上の作業(クリック&カーソル移動)を厭わずに見に来て下さる人だけが目に出来るレア情報であり、言い換えれば形になっていない準備稿であるという事でもある。その準備稿は、まだ現実の存在としてはぜい弱だという意味で、コメント日記に掲載される事に適しているし、しかしまた表に出る際には反発を呼びかねないから、という理由で安易に削除されてしまうような過程を経ていない核心性においてもまた、コメント日記に適している内容だろうと思う。
そしてそんなことをやりつつ、何かいろいろな方向に、活動の芽を伸ばしたりただ何にもしなかったりしてみたい。


と、いったことを書きながら考えたのだが、ここで書いた日記は、1スレッド(一月分)が終わるごとに削除しよう。多分その事で、少なくともこのミクシィ日記関係に関してはさらに先鋭化を進めることが出来るだろう。
とはいえこれは今考えたので、12月分は1月半ばまで残しておいて、その後は1月が終わったら1月分削除&2月度スタート、って感じにします。11月分は、12月中には消します。
またこれは既に進めていますが、11月度コメント日記以前のミクシィ日記も、すべてバックアップ後に削除しています。コメントを頂いた皆様の記事も、大切に保管しつつ、ひとまずミクシィからは外しています。これまでコメントを下さった皆様、ありがとうございました。
ついでのように書きますが、このスレッドも含め、ミクシィ・コメント日記でもコメントは随時受け付けておりますので、よろしければ是非どうぞです。コメントを頂ければ、それこそ更新のお知らせが行くと思います。逆に言うと、更新のお知らせは要らないのにコメントしてしまうと、ちょっと煩わしいかもしれないです。