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0906日記

 がががーーーん。
 ”【海難記】 Wrecked on the Sea”を復活させたばかりのid:solarさんこと編集者/文筆家の仲俣暁生さんが、件ブログ にて『東アル』(『東京大学アルバート・アイラーISBN:4944124198。菊地氏が日記上で命名するも、実際に使っている人を私は知らない)を紹介&絶賛。

hatena diaryを休んでいた半月ばかりの間に読んだ本で面白かったのは、菊地成孔大谷能生の『東京大学アルバート・アイラーISBN:4944124198、その影響でマイルス・デイヴィスをはじめてきちんと聴いている。
〜(中略)〜
とにかく、名講義であり、名著である。


http://d.hatena.ne.jp/solar/20050906より)

 本文を読まれた方にはちょっと抜粋箇所に恣意が感じられるかもしれませんが、少なくとも本書に関しては絶賛。と言ってしまっても大丈夫でしょう。
 んーそうですかー、気に入って頂けたんですねえー。嬉しい・・・って、僕べつにそんなアレですけど、何ていうか、でも、仲俣さーーん、あの後書き対談は僕が司会したんですよーー!!と言いたい。そしてあの下書き、僕もやったんですよーー(あとそっくりもぐらさんが)!!と言いたい心持でいっぱいです。

 なんてアピアーはともかく、この仲俣さんのエントリーでは結構長めに、『東アル』を起点として「ジャズ」と「白人性」について書かれていて、「本が触れられて嬉しい。」というだけでなくてずいぶん興味深く読みました。とくに「ホワイトネス」について書かれた後半部は面白くて、考えごたえがあるというか、字面に囚われてしまうと無用な突っ込みをいれてしまいそうになるのだけれど、よく咀嚼しつつ思念を進めてみると多分面白いことになる気がしました。

つまり、ロック以後のポップミュージックに始終つきまとう「貧しさ」のイメージは、黒人性とは関係ない。むしろその逆で、ホワイトであることの貧しさであり、貧しさとしてのホワイトネスだ

 じゃあ何が面白くなりそうなのかっていうとそれは例えば上の引用部のようなところで、さらに言えばその「黒人性とは関係ない」の、”関係ない”がやけに響く。関係ないのかよ、と突っ込みが直ぐ入る。でも関係ないと言うのだからないのであって、ようするにここで言われている「ホワイト」ないし「ホワイトネス」は黒人性の対照としてのそれではなくて引用部に依れば「貧しさ」の上に立っている。

 というところで思い出すのは、僕が今作業をお手伝いさせて頂いている大谷能生さんのレギュラー・イベント『大谷能生フランス革命』(参照先はコレコレ)で、大谷さんはある時「黒人ないしジャズ側から世界を見る視点」を考えていきたいというようなことを仰っていたのだけれど(僕の解釈ですが)、それがまさに仲俣さんの視線と対応している。
 これは100パー僕の憶測ですが、大谷さんの言う「黒人側からの視点」というのはいわば「世界から関係ないとされていた人たち」のそれで、その”関係ない”は仲俣さんの言う”関係ない”とはズレた場所にあるのだろうけど、でもズレながらの照応であるとは言える。

 ではどんな風にズレているのか、ということをちょっと考えてみようかと思ったのだけど、そんなことをして陥りがちなのはそれぞれの御作業の「あらすじ」を語ることに過ぎなかったりして実際僕なんかの場合にはそういう無意味なことに身をやつす場面が多々ある。

 とわかっていながらやるのはそうした無意味さの価値を闇雲に信じている部分もあるからで、お二人にまず通じるのは、それぞれのアイディアがまだ発掘されていない、誰にも語られていないことであるからこそ魅力的足りえているということだと思う。
 では何がズレているのか(共通していないのか)と考えると、それは大谷さんがある種の事件性に着目しながら考察を深めるのに対して仲俣さんは特定の人物を通して歴史を観ているという点なのかな、とか思うのだけれど、それこそがまさにやっちまった的な「型にはまった」考え方で、でも岸野雄一さんがユリイカ増刊『オタクVSサブカル』で言っていたように、間違えなければ面白いものは生まれないのだからそれでいい。

 とはいえ本当に大事なのはお二人を図式的にマッピングすることでは勿論なくて、それぞれがそうするように独自に(そして時には共に)考える、想像をめぐらすということなので、そのズレた照応を成立させている新種のアイディアを今はただ横目に見ながらまたその魅力に哲学の擁する面白さと通ずるものを感じたりしながら僕も哲学しています。