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0823日記

 淋しい夢をみる日がつづく。
 あれからひと月が経つ、そのせいかと口実ければ筋は通るが、そんなものは安い因果に過ぎないうえに、まずそれでさえ、ない。あのとき僕は「一生憶えているということは、一生痛いことだろうか」と訊いたが、今なら「それほどでもない」と答えられる。

 時間が一番の薬なのだと経験則に積み上げることはそのように容易だが、そんなことは何の役にも立たないことをさすがの僕も知っている。それに襲われたとき、僕はただ耐えているしかない。それが一時的に過ぎただけだ。
 時々、得てして神聖化されがちなそれを馬鹿にしているとしか思えない最悪な冗談を思いつく。自転車でフラフラ走っている時や、電車から外の景色を眺めている時だ。そんなひどい話を喜んで聞いた唯一の聴衆たる彼を思い返しては、ただ降り積もる最悪な冗談に一人でウケている。
 一体それは何だったのか。
 僕には未だにわからない。誰もがそれについて知っているように僕には見えるが、実際のところは誰にもわかっちゃいないだろう。思うのだが、あの日以来、僕は『カイロの紫のバラ』のミア・ファローのように、スクリーンの中で生きているのではないだろうか。或いは、もう一つの今も並行した場所に息づいている現実がどこかにはあって、そこには以前と同じように、汚らわしくて猥雑極まりないあの時間が流れているのではないか。
 それは、大して間違っていないように僕には思える。人間にはまだまだ解明されていない部分が多くあって、知っていることなんて、その一部の一部のそのまた一部に過ぎないのだから。