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ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』第23章「外部情報に基づくアプローチ――なぜ予想ははずれるのか」より

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』は気が向くたびに読み返す。示唆に満ちた本である。
とくに、第23章は気に入っている。本書を全体的に好きだが、この章にはとくに心惹かれる。

これまでこのブログではけっこう同書の抜書をしてきたが、不思議と同章の抜書がなかったので少し書いてみる。
以下は同章の最初の節。この次の節と、最後の2節も好きだが、なかなか骨の折れる作業なので(とはいえ得るものも少なくないが)とりあえずここだけ。

 エイモスと共同研究を始めてから数年後、私はイスラエル教育省の役人を口説き落とし、判断と意思決定を高校生に教える必要性を認めさせた。そして、そのためのカリキュラム作成と教科書執筆に着手する運びとなった。そこで私は、適任者のチームを編成し、ベテランの教師や私の教え子、そして当時ヘブライ大学教育職大学院の院長をしていたセイモア・フォックスなどに声をかけた。セイモアはカリキュラム作成の専門家である。(略)
 
 ある日、計画の中のいくつか不確実な要素を確認している際に、私はふとある実験をやってみようと思いつき、メンバー全員に、教科書の最終案を教育省に提出するまでに何年かかるか予想して紙に書いてほしいと頼んだ。(略)私は紙を回収し、結果を黒板に書き出した。全員の予想は、二年を中心に狭い範囲に集中しており、最短で一年半、最長で二年半である。
 
 そこで私はまたまた思いつきで、カリキュラムづくりのエキスパートであるセイモアに対し、これまでに私たちと似たようなチームがゼロからこの手のプロジェクトに臨むのを見たことがあるか、と質問した。(略)セイモアは相当数見たことがあると答えた。そうしたチームの成り行きをこまかい点まで覚えているだろうかと重ねて訊ねると、いくつかのチームはよく知っているという答である。そこで私は質問した。「では、そうしたチームがいまの私たちの段階まで進捗した時点を思い出してほしいのです。この段階から教科書の完成まで、何年ぐらいかかりましたか」
 
 セイモアはしばらく黙ってからようやく答えたが、その顔は紅潮しており、自分で自分の答に困惑しているように見えた。「そうだな、このことにまったく気づいていなかったのだが、正直に言うと、われわれと同じような段階に到達したチームの全部が全部、プロジェクトを完了したわけではない。かなりのチームが、完成に至らなかった」
 
 これは懸念すべき事態である。私たちは、失敗する可能性など考えてもいなかった。私の不安は募った。いったいどのぐらいの割合で失敗に終わったのかと訊ねると、おおよそ40%という返事である。いまや部屋中に重苦しい雰囲気が垂れ込めた。次に質問すべきことははっきりしている。「では、完成したチームは何年ぐらいかかりましたか」。これに対する答はこうだった。「七年以下というチームはなかったと思う。だが、十年以上かかったチームもなかった」
 
 私は藁をもつかむ思いで訊ねた。「これまで見てきたチームと私たちを比べて、どう評価しますか。私たちのスキルやリソースは、どの程度のランク付けになるでしょうか」。セイモアは、今度は躊躇なく答えた。「われわれは平均以下だ。だが、大幅に下回っているわけではない」。いやはや、全員にとって驚天動地の出来事である。全員、というのはセイモアも含めてだ。セイモア自身の予想も二年半以下の範囲に収まっていたことを忘れてはいけない。私が質問するまで、彼はこれまでの経験といまのチームの将来予測とを結びつけて考えようとしなかったのである。(略)
 
 私たちは、その日のうちに打ち切りにすべきだった。40%の確率で失敗するプロジェクトにさらに六年以上費やす気など、誰にもなかったのだから。しかし私たちは、そんなにがんばるのはばかばかしいと感じてはいたものの、不吉な情報を知ったからといって、すぐさま尻尾を巻いて退却すべきだとも思わなかった。支離滅裂な議論を数分間戦わせたのち、私たちの意見は一致した。なかったことにして進めよう、と。最終的に教科書は、八年後(!)に完成した。その頃には私はもうイスラエルに住んでいなかったし、そのだいぶ前にチームを離れていた。メンバーは予想外の幾多の試練を乗り越えてようやく完成させたのだが、そのときには教育省の当初の熱はすっかり冷めており、教科書は一度も使われずにお蔵入りとなった。

Webサービスのユーザーヒアリングを効率に行うためのツールの要件を考える

  • 使っているWebサービスに関する感想をあれこれ言うせいか、以前、某サービスのユーザーヒアリングのような機会に呼ばれたことがあるけど、単発の外出というのはなかなかコストが高いので、わざわざ出向かなくても同等の情報提供をできるように、誰でも入れる(あるいは招待された人だけが参加できる)Slackのような場所を作って、そこで対象のユーザーが都合の良いときにいろいろ意見を聞いたらよいのでは? と一瞬思ったが、それでは対応する側のコストが飛躍的に高くなってしまうかもしれない、とも思ったり。
  • 具体的には、チャットだと基本リアルタイムに近いやり取りをしがちになってしまうし、プラスそのような継続的な場に一度ユーザーを呼んでしまうと、その後その関係が半永久的に続いてしまう、という負担が生じそう。
  • そう考えると、むしろ対応する側(Webサービスを提供する側)の負担を最小化するために自社に呼んだりするのかなあ、とも思ったり。
  • とはいえ、それではユーザー側の負担が高いことには変わりないので、折衷案的に、GitHub Issueのような掲示板スタイルの場所、つまりチャットとメールの間ぐらいの非同期感&文字量で使うことを想定した、かつ書き込んだ内容も自由に編集(修正)可能なツールならちょうどいいのかな、と思ったりした。

単純で暴力的な煽動者と、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在

  • 単純で暴力的な煽動者に人生を奪われないためには、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在がそれより多く目につくようでなければいけない。
  • 単純で暴力的な煽動者を叩いても後者のような人物が増えるわけではなく、むしろ単純で暴力的な煽動者を人目に多く触れさせるという逆効果につながる可能性がある。
  • 単純で暴力的な煽動者を上回る数の、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在をどう生み出し、育てていくかということを第一に考えていくべきだろうと考えている。

下へ、下へ

  • ワイドショーなどをたまに目にすると、違法駐輪をする人とか、不法投棄をする人とか、万引きをする人などを追いかけて、「こんなひどいことをする人もいるんですねえ〜」という論調で見下したり、責めたり、あるいはその報いを受けているところを見せて溜飲を下げたりしている状況があるのだけど、それはたぶん以下に書いたような、
  • 人間の価値をソートする - 103
  • 自分よりも下のものを見つけて(作って)、そのぶん自分が「上」に立ったような気になれるから、成立しているのだと思っている。
  • わざわざワイドショーなどを見ない人であっても、ネットのニュース記事などで、愚かなことをしたとされる人を見て、あれは良くないとかそれはダメだとか言うことはあると思われ、やっていることは似たようなものだと思っている。
  • 「自分より下」だと思えるものを探し続けてしまうと、それまで本来の仕事としてやってきた、「自分のやりたいことをやる」ということができなくなる。それは何だか、それまでのぼってきた山を下山していくことに似ている。
  • 下へくだれば、たしかに目当ての「自分より下」のものは見つかるだろうし、そのつど「自分はこれよりはマシだ」と思えるかもしれないが、実際に自分の立つ場所もどんどん下がっていってしまう。
  • 「自分はまだ下のほうにいる」と思いながら、先人の後ろ姿を見ながら上へ、上へのぼっていくつらさのほうを選択したい。

100年後の人に届けばいい

  • 実直で優秀な作り手が、見知らぬ人からの非難に心折れたり、憤慨して戦ったりして貴重な時間や労力を費やしているのを見ると、もったいないなあと感じる。
  • 嫌なことを言われて心折れたり、憤慨してしまうのは当然のことで、また反射的に戦ってしまうのも仕方ない面があると思うが、それでも「その時間で何を作れたか」「その時間でどれだけ休めたか」「その時間でどれだけ素晴らしい他人の作品を味わえたか」などと思うと、それがもったいないという気持ちにつながっていく。
  • これは遠近法のようなもので、目の前にいる人は大きく見える。宙を舞うビーチボールと空に浮かぶ月とを比べたら、実際には桁違いに月のほうが大きいが、こちらへ向かってくるビーチボールは月よりも大きく見える。
  • 目に見える大きさに惑わされてはいけない。相手の言っていることは本当に重要なのか、見極める必要がある。
  • ものを作る人は作ることで生きていくのだから、なるべく作ることに集中できたらいいだろう。今どれだけ嫌なことを言われても、その言葉じたいは自分の作品を傷つけるものではない。しかし作ることをしなければ、それは将来生まれるはずだった作品を生み出せなくなるという意味で、その作品を傷つけることになるだろう。
  • 今この瞬間を生きる人々に認められなくても、100年後の人には伝わるかもしれない。その人に届けることを第一に考えたい。