同い年か自分より年下の誰かが、自分よりもいわゆる「成功」している姿を目にすると、それを認めたくないような、悔しいような気持ちになる。
これを人は「嫉妬」と呼ぶだろう。
不思議なことに、自分より年上の人がそうなっても、とくにそういう感情は湧かないか、湧きづらい。
思うに、人は知らず知らず、自分と他人とをつねに一つの観点からソート(順位付け)している。
しかしそれは同時に、全人類を対象としたソートではなく、一定のグループを対象に行っていて、そのグループに含まれているのが、同年代かそれより下の世代ということなのではないか、と、自分の体のうちに発生する反応を省みながら考えている。
単純な話、それは小学生、いやそれ以前の年齢の頃から始まっていた、同い年どうしで限られたハコ(教室)の中に押し込められて、その中で1番だ、7番だ、いやビリだ、と順位付けされ続けてきたことが、体や感覚に染み付いてしまったということではないか、と思っている。
それが良いとか、悪いとかいうのはもう意味のないことで、それはただ、そこに「ある」。
少なくともそのように育てられ、生きてきた以上、ほとんど「重力」のように、逃れられない前提としてそこにある。
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自分と同じグループにいると思える誰かが、自分より「成功」しているところを見ると、その対象は自分より「上」の順位に入り込み、そのぶん、自分の順位が下がる。
実際にはもちろん、誰かが明確にそのように言ったり、決めたりしているわけではないが、頭の中のどこかで、そういうイメージが発生している。
before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
after:
537位 知らない誰かA
538位 成功した誰か ←突然自分の上に挿入される
539位 自分 ←その影響でランクダウン
540位 知らない誰かB
嫉妬の構造とは、たぶんこういうことではないか、と考えている。
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成功したように見える誰かを、あるいはそうでなくても自分以外の誰かを、貶めて、足を引っ張って、その地位を失墜させようとする衝動が人にはある。
それもまた、そうしたソートする感覚の作用であって、自分より「下」に誰かが入り込めば、そのぶん自分の順位が上がる、という感覚になりやすい。
before:
537位 知らない誰かA
538位 自分
539位 知らない誰かB
after:
537位 自分 ←それまで上にいたAが下に入ったぶん持ち上がる
538位 知らない誰かA ←ランクダウン
539位 知らない誰かB
すでに小学校のテストの時間は終わり、定員の決まった大学入試や入社試験も過ぎたはずの大人でも、この思考から逃れることはなかなかできないようだ。
前述のように、それはもう良いとか悪いとか表現する問題ではなく、いくら逃れようとしても逃れられない前提としてそこにある。
限られた食料を、それに見合う以上の数の人々が奪い合えば、飢える人は必ず出る。
とれる人間ととれない人間とがいたら、とれるほうに入りたいと思うのは自然なことだ。
しかし現実の世界では、多くの場面において、そのように人々が互いの順位を意識しなければならない状況はそれほどないはずで、そのことを意識できれば、多少は気が楽になることもあるかもしれない。
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嫉妬の感情に飲み込まれる、みたいなことは、日々自然に発生してくる体の垢みたいなもので、「私はもうそれについて一度深く考えたから大丈夫」ということにはならないと思う。
気がつけば体を覆い尽くそうとするそれを、定期的に洗ってやらなければならない。