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文字起こし職人は不要になるか?

ひたすら文字起こしの日々。肩痛い。いろいろ対策はしてるつもりだけどまあもう仕方ないとも思いつつ、ひとつ言えるのはとにかくスピードだけは上がってるなってこと。
と同時にこの能力がどれだけ上がったとしてもそれが自分のなんか役に立つ、ともあまり思っておらず、僕の生きている間にどれだけ進むかはわからないにせよ、たんに音をテキストにするってだけならかなりの部分を今後は機械がやってくれることになるだろう。粗い起こしは機械、それを人間が調整するってことになる。
で、さらにいえばその調整作業に職人的な能力はいらないだろう。「感性」とか「必要性」とかがそこでは問われる。つまり内容をきちんと把握し、この言い方がいいかはわからないが「愛着」というか「愛情」というか、無償の奉仕的な意志があるひとなら誰だってそれをできるだろう。職人は不要になる。ある意味では。どの意味では、かと言うと、単純な話でカメラができるまでの写実画家、つまりカメラ代わりの画家みたいのはとりあえず不要になり、レコーダ(録音機器)ができるまでそれ代わりとして居た誰か(楽譜の速記の人とか?)がとりあえず不要になったような意味で不要になる。
と同時にその瞬間から写実絵画と写真とのあいだにある「違い」がもたらす特性において、そのある意味不要になった人たちはまた必要にされていくのだろうからまったくどこに行っても不要というわけではないけども。

で、そのまったく不要というわけではないが、というのと繋がる感じで話を戻すと、文字起こしの大半を機械がやるようになったらその後のトリートというか調整というか作品にしていく作業っていうのにも従来の文字起こし職人はだからいらない。そのことによって僕の仕事もある意味なくなるわけだがそれは認めざるをえないというか認めなくてもそうなるだろう。
その調整作業で必要なのはたとえば編集者で、あるいはたとえば佐々木俊尚さんがもうすぐ出すという本のことでよく言われるキュレーターというのもそれかもしれない。何が必要で何がそうでないか、脈を見ながら判断し手を動かす人が必要になる。
新たなものが生まれることで不要になるものがあり、それは避けられない。食洗機が導入された店で皿洗いの達人はとりあえず皿洗い以外のことをしなければならない。というか皿を洗いたければ趣味でやれ、ということになってくる。文字起こしもそうなるかもしれない。写経とか、マラソンとかそういうのに近いかもしれない。なんでそんなことするの?いや・・楽しいから。みたいな。
かなり精度の高い起こしが機械によって行われることになったとして、懸念されることもある。もちろん職人の職がなくなる、ということではなくて、これまで何度か知り合いに土台を起こしてもらって、ということをしたことがあってしかし、すべてが使える土台になったかというとそうでもない。というか最初から自分でやったほうが早かったな。ということすらある。途中までやってもらったからそれでいい、というモノでもどうやらナイというのがこの作業の不思議なところで、そう考えると一概に粗起こしは機械でやればおkといって済ませられることでもないのかなと思えてくる。つまり最初から人力で、それもある特定の人間が起こしていった場合と途中まで機械にやらせた場合とのあいだにある違い、それをどうみるかということだ。
とはいえ、それもまた自分の編集作業に合うよう事前に機械をカスタマイズというかいいようにセッティングしておけばおk、ということには早晩なるかもしれず懸念というほどの懸念でもないかもしれない。

なにを言いたいのかというとそこにこそ人間のやるべきことがあるだろう、ということだ。文字起こしを機械がやるようになるならたしかにいろんな不具合も生じるだろうがやっぱりそれは明るい未来じゃないかということだ。僕がこの作業をしているうちにその変革を体験できるのか、印象としては五分五分という感じだけど文字起こししながらそれを待っているは待っている。