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 佐々木敦さんの日記更新で、「文學界新人小説月評」の9月号分と、群像に掲載された「宮崎誉子著『日々の泡』書評」(2005/11/07付)。
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1) 宮崎さんはデビュー作を丁度リトル・モアの新人賞発表号で読んでから、もっと言えばロッキン・オン・ジャパンに掲載されたミッシェル・ガン・エレファントをめぐる投稿(ってかほとんど小説)から読んでいたのだが(僕は生粋のジャパナーだったのだ)、個人的には作家の好きなミュージシャンの歌詞とかを作品に入れられるとヒク性質なので(だから絲山さんの『逃亡くそたわけ』も駄目だった。こういうのって作品本体と有機的に反応する歌詞なら良いのだが、それは滅多にないというか、その曲を知らないとわかんないんすけど、と、知らない私がそれを読むより先に引用箇所をシャットアウトしてしまうのだ。でもそれって俺が悪い?あ、いや違うわ。考えてみたら僕ピーズは超好きなんで、やっぱりあの引用の仕方が問題なのだ僕にとっては)、なんか結局デビュー作が一番よかったのか・・・?とか思っていたけどそんなのはちゃんと読んでない証拠だったかもしれない。良し悪しでなく、ただ「読んでなかったんだな」という事実として。
 前置きが長いが(前置きのつもりで書いてたのだ)、佐々木さんはフツーに宮崎さんと岡崎京子を並べて論を進める。以前SWITCHで岡崎特集をやったのを見て僕は「おお、勇気あるなあ」と思ったものだけど、岡崎京子を語るというのは簡単でいて難しい。語ること自体は好きなら出来るのだけど、岡崎作品に込められているものは余りにもかわいくってカッコよくて誰にもそれぞれの岡崎像があるので「ホントそうだよね!」という同調が得られづらいと思うのだ。べつに同調を得るために書くわけではないだろうが、それでもそこから生じる難しさってあるのじゃないだろうか。
 そしてそれでも尚、佐々木さんの論を読み進めることは、何だかレコードの溝を針が引っかくようにして胸にガリガリと傷をつけて出てくる僕の内なる声を聞いてるようで、「あれ、これ数年後の僕が喋ってること?」とでも言いたくなるような微妙なシンクロ具合が実に不思議な感じだった。
2) 文學界の小説月評は、『文學界』を読むときに僕はいつもこの新人小説月評から読むので(普通そうでしょ。あれウォーム・アップになるよね)、ここで読めるのが嬉しい。というか、担当が佐々木さんになってそれを読むのが余計楽しみだったので倍の倍ぐらいに嬉しいのだ。
3) ちなみに佐々木さん日記ではその前のエントリーで保坂和志さんの『小説の自由』評の転載も載っていて(2005/10/14付)、保坂さんのその本はと言えば、僕が書き起こし&WebUPを担当させてもらっている『大谷能生フランス革命』の第1回にくっつけさせてもらった註釈ページでこれでもかってくらい引用・利用・言及させてもらった本でもあるので、その辺り興味を覚えたアツラー(菊地さんを呼ぶ際の”ナルラー”にかけている)には、よろしければ本文と併せてご高覧頂きたい。
大谷能生フランス革命テクスト版→http://www.geocities.jp/television2nd/index-home2.htm