103

 近所のTSUTAYAへ行って、何か気晴らしになる映画を探してみるもののパッとするのが見つからなかったので結局何も借りなかったのですが、そのあいだ頭上で流れていたのが大塚愛さんの何とかというサビが印象的なちょっと昔の曲だったのですが(というか彼女の曲はどれもサビが印象的なんでしょうねきっと)、”気晴らしになる映画”を探しあぐねている間ずっと流れていたのでほとんどフル・コーラス聴いてしまいました。大抵のオリコンなどでトップを奪取する曲に対してそうであるように、僕はこれまで大塚さんの曲をフル・コーラスで聴いたことはなかったのですが、とにかく最初の印象は「すげえ声だな・・・」ということでした。なんなんだこれは、全然わからないぞこれが流通してしまうということが。と。
 とはいえ、何せ”気晴らしになる映画”を探しあぐねている最中だったので、さらにそのまま聴いていると、いつしかありふれた既視感満載のコード進行を携えた感涙必死の情緒煽動一直線のサビが到来し、実はこの時点でも僕は必ずしも「声」以外の意外性は感じていなかったのですが、しばらくそれを聴くうちに、「甘やかなしつこさ」とも言い得る楽曲がもたらす世界像の質感、さらには茫漠とした彼女の「諦めなさ」乃至「けなげさ」のようなものが目の前に立ち現れ来たのでした。
 などと言うと、あたかも僕が大塚さんの楽曲を広汎に分析しているようですがまったく違くて、ただそこまで考えてから同時に再び思ったのが彼女の「声」に関することで、というのはおそらくすでにその楽曲が2コーラス目のAメロに入っていたからだと思われるのですが、つまりはその「声」が、潔いまでに突き抜けたサビに比べるといささか所在無げに見えてしまうAメロの弱さをカヴァーする、場合によっては利点へと翻す役割を多く担っているのではないか。と、「声」と融和することによりもうどこにもないトーンを持ってしまったAメロ時間中僕には聴こえてならなかったのでした。
 またこれはAメロ話とは全く関係ないのですが、思うに人は、彼女のフェイクな声及びパフォームをそのままフィクショナルな前提として捉えた上で、その先にある「リアルで諦めなくてけなげな大塚さん」というもう一つのフィクションをもさらなる演舞的前提として受け入れた上で、純粋に大塚さんの作品を鑑賞しているのではないか。と、そのバークリー・メソッドど真ん中の一曲に酔いしれつつ、ついでに”気晴らしになる映画”の探索も諦めつつ思いました。画像は、件の楽曲とはぜんぜん関係ありません。