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仲俣さんのクローズアップ現代出演を見て、あっという間だったなあ。見ながら「ひでー、この切り取り方」と、vtrの恣意性に対しクチギタナクあれこれ言ってたけど、結局充足感があるというか見応えあったなというか、壮大に釣られまくって最後まで飽きなかったです。
切り取り方を単純にシンプルにして、なんというか落としどころを月並みな感じにするっていうのは(みんな本を読まなくなってきておかげで書店も書き手も大変ですね、みたいな。べつに仲俣さんがそう言ったわけでもなく)、短い番組でそれなりに視聴者を満足させる手段として普通なのかなと思いつつ、だからといって良いとも言わないけど、おかげでずっと「考えながら」見ることができたので好きではないけど及第の番組、という気はした。
いやだなーと思ったのは、ランキング重視で本を買う人を、ちょっと馬鹿にしてるように見えたところ(vtrの軸が)。ランキングに振り回されることを、なんというか「何も考えてない(だから啓蒙してあげよう)」みたいに配置してるようで、それって簡単すぎねーか、とそういうクチギタナサに沿った突っ込みを示しつつ見てた。
そういう、ランキングを参考にしやすい人が本を買ってお金が動いて、そういう人は振り回されてるとか自分ですら言いつつも、実際にはモノではない「人」ですから、そういう人たちへの敬意とは言わない人間扱いの目がなんか、薄い気がした。まあ、上から目線? みたいな。
本を好きな人は文筆家や書店を食べさせてると思うけど、本を株券のように人間関係の潤滑油的道具として買ってる人がいるとしてもその人だって文筆家や書店を食べさせてるのではないか。そういう人たちがあたかも「何も考えていない」ようで、彼らに「教えてあげよう本の素晴らしさを。自分で選ぶ尊さを」みたいのはちょっと狭すぎるのではないか。
現状分析とかもいいけど(面白いだろうけど)僕はどうしてランキングというのがそんなにある種の牽引力というか魅力というか人を惹きつけうるのか、ということが不思議でそれについて考えたいなと思った。僕自身は「みんな」がどういうものに興味を持っているのか、何が人気とか売れてるとか、まったく興味がないどころかむしろそっから逃げ出したい派ですけど、それというのは、そんなの気にするまでもなく僕の好きなものが他の人とそうそう大差ないと思っているからかもしれず、食べ物にしてもテレビ番組にしても、僕が好きなものを他の人が「どうして! あんなマズイ食い物を?!」とか「あれ超つまんねーよww」とか言うことはほとんどなくて「そだよねー」と言い合う方が多い気がする。
だから思うのだが、そういう、もとよりマジョリティにある自分、というのを、むしろ自覚・実感できないような、そのことに不安を感じるような人が、なんかしらに帰属したくて大勢派に入れるようホームの雰囲気を学習すべくランキング上位本を買ったりする、という仮説は立つだろうか。
でもまあ、しかし考えてみると、子どもの頃とかってけっこう僕もランキングものが好きだったな。歌番組とかまだいくつかあって、そのメインの牽引力(メインディッシュか)は司会と歌手がずっと身辺雑談をしたりなんかゲームをやっている模様を表現力豊かな字幕とともに流すのではない、今週の第1位はなんだろな、だった気がする。それはまあ、でも、明らかに、上位に行くほど華があったんだよね。上位ほどやっぱり面白く感じられたというか。主観ですけど。どうなんだろ、実際は、んー、そうか、やっぱりそこに、わかりやすい腑に落ちやすい物語を作れるのかな、ランキングがあると。
話が少し変わるけど、でも、「ランキング上位だから買う」というモチベーションって僕にはなくて、だから不思議というか、んー、そんなところに面白いものがあるの? とか思っちゃうんだが、大勢が面白いと思うものって、そこに共通する薄い要素しかないというか、誰かにとって凄く好きなものって誰かにとって凄くイヤなものでありやすいというか、やっぱり自分が凄く好きなものを僕は見たいので、そういうのを、誰もがわかる、という前提はどうしても持てず、だから時間短縮として、大勢が見てるところはとりあえずスルーするよね。その方が好きなものにダイレクトで着きやすい気が。別に法則ではなくて。
あとは、はてブとかとみにそう思うんですけど人気エントリーとか、面白いから人気なのかっていうとまた別っていうか、まあ収穫逓増じゃないですか、みんながいるから行ってみるか、って誰かが集まると、それ見て「お、人気らしいぞ」って誰かが来て、それ見て誰かが、っていう円環。そんな構造、みんなわかってるはずなのに、どうして人気エントリがなんらかの指標になりうるのか、つながるところあるよね多分本のランキングと。
不思議と言えば不思議、どうしてなのか、んー、やっぱり落ち着きたいっていうか、安心したいのかな人間は。なんかよりどころっていうかね、でもなー、面白いっていうか好きなもの? って、自分の体格とか体質にフィットするものとしてあるような気がしていてワタシには。だから、そうそう共有できるかなー? という気がするんだけどなあ。まあ、共有、事後的に、結果から見れば、できてることも多いんだけど、人間ってことでコードできるから我々は。そうだな、そう大きくは好みとか変わらないからな、そこでの差異? を見つけるツールにもなるのかなランキングは。いや、でも、むしろ、より根源的に好きなもの、っていうのを、一緒に探そうぜ教え合おうぜ、みたいな部分もあるのだろうか。それもそうだったら面白いかも。
本当にさー、本当に面白いもの? なんか没頭できる、時間を忘れるぐらい好きなものって、そういうのにハマる経験って、ありますけど、そういう経験をすると、普通は、にわかには、そういう経験を不特定多数の他人と共有できるとは想像できないような気がするんだけど、その先にある博愛的なシェア精神みたいなものがランキング嗜好にある、ということは・・・ないよな。
やっぱり他人とおんなじはイヤだな、他人とおんなじなんだけど、でもそっから逃げたいな、という気持が、僕の場合は強いんだけど、同じものを好きっていうことと、それとは矛盾しないような気もして、ようするに今生きてる人だけを対象にして考えるとランキングとかの話になるのかな。コミュニケーションによる快楽っていうかスキンシップっていうんですか、いや違う気がするけどこのグングン奥底に入っていくような面白さっていうのは・・・不思議だねえ、不思議だ。本当にぜんぜん気持がわからない気がするな。聞いてみたらいいんだろうな。
よくネットですと「**のどこが良いのかわからない」って言い方が「**なんて全然ダメだろ」の言い換えで使われてるけどこのわからなさは文字通りの意味で。
やっぱり思うんだけど僕は相当欲が強いというか、簡単に満足できないというか、薄い感触では足りなくて追っていっちゃうし、我慢もできないしイヤだと思ったらヒステリックに抵抗しちゃうんだけど、だから、「これ面白いですよ」とか言われても、同じお金出して買うなら「もっと面白いものあるかもしれないから他も探して比べてから買う」ってなるんで、その欲の度合いみたいなこと、っていう仮説は立つだろうか。
でもなー、考えてみたら僕の知ってる人でランキングを参考にモノ買ってる人ってぜんぜん心当たりないんですけど、そもそも。インタヴューの相手とか人のサンプルとかあれ仕込みじゃないか・・・? それとも俺の交友関係が異境すぎるのか? むしろネット言説みたいのに、ああいう本をランキングで買うというモデルを地で行くようなスタイルを散見する気はするが。
と、そのように考えてきてふと思ったが、たとえばネットで検索しても最初の10件以降は(最近はAutopagerizeあるので50件ぐらいまでは見るけど)あんまり見ないね、というのと似た感じで、ある種の人間の生理みたいなものとして、ランキングで紹介されている本以外は「面倒だから」とりあえず手に取らないでおく、みたいな現象があったりするのだろうか。つまりあんまり自覚的ではないというか。ランキングを参考にしてるとか積極的にそれが好きっていうよりは、なんか他にすることがありすぎたり忙しかったりしてとりあえず、差し当たってその辺を手に取っとく、みたいな。もっと気持や時間に余裕があれば、ワタシだっていくらでも色々さがしたいんですけど、みたいな。