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ADP(アマゾン・デリバリー・プロバイダ)に翻弄されている

「ADP」で検索すると、ただその言葉の意味を知りたかっただけのはずが、その悪評ばかり目に入ってくる。

自分は今までこの問題とはあまり関係ないと思っていたが、最近ちょっと本格的に駄目かも、と思い始めたので備忘録として書いておく。

時間を守らない

うちは荷物を確実に受け取れる時間が限定的なので、宅配で商品を注文するときは、ほぼ100%日時を指定している。

日時指定がない届け物は、自分では注文していない宅配物だけで、それにしても家族などにはもう何年も前からこちらの希望時間を指定するように頼んでいるので、未指定の荷物は年間でも数えるほどしかない。

日時指定を徹底すると、こちらとしてはもちろん、配送業者としても持ち戻りの可能性がなくなり、ありがたいはずだろうと思うが、ADP(アマゾン・デリバリー・プロバイダ / Amazon Delivery Provider)という、ようは「ヤマトでも佐川でもないいろんな配送業者の総称」みたいな業者さんがいて、彼らは指定した時間を果敢に無視して1時間半前とかに飛び込んでくる。それも、何度も。

持ち戻りになればそれだけ非効率ではないかと思うのだけど、そういうことはあまり気にならないようで、以前には何分にもわたってインターホンを押され続けたこともある。(ということは、やはり持ち戻りはしたくないのか)

こういうことをされると、仮に自宅にいたとしても、来るはずがない時間に来るのでいろいろ効率が悪く(具体的には、自宅で仕事をしているときに集中が途切れるとか)、またその後も「ADPが配送予定だから2時間前から準備してないといけないな・・」なんて、本来なら時間指定によって避けられたはずの余計なストレスを、時間指定をしているにもかかわらず抱えることになる。

さらには、つい少し前、というのはちょうど今月に入ってからだが、書籍のような、ポストに投函可能な物については玄関まで来ないで、投函してそのまま帰ってしまうケースが出てきた。以前にはどんな小さな宅配物でも、Amazonプライムの日時指定の対象であればハンコを取りに玄関まで来たが、それも無くなってしまった。

*念のために書いておくと、わざわざ小さな宅配物まで毎回玄関先に持ってきてほしいわけでもなければ、それにハンコを押すのが好きなわけでもなく、むしろポスト投函の方が助かるケースの方が多いが、「せっかく受け取るためにスケジュールを空けて待っていたのに事前の連絡もないままポストに投函して帰ってしまった」という状況が困るということ。

*ついでに言うと、「投函しました」みたいな通知が後からメール等に飛んでくるのだけど、これが測ったように指定した時間枠に入ったと同時ぐらいに来るので、たぶん投函時間は指定を無視した上で、その通知だけ時間内に行っているのだと思われる。証拠は何もないが、まったく信用してないのでそう思っている。

ポスト投函の謎

数日前にも、またやられてしまった。事前にAmazonのサポートにわざわざ電話をして、届け先の詳しい状況(その日時以外は受け取れる人間がいないこと)を知らせた上で、配達日時を指定したにもかかわらず、その指定日の前日に、書籍が3冊も入っている大ぶりな封筒をポストにねじ込まれてしまった。

このポストはもちろん宅配ボックスではなく、むしろ小さい部類のもので、ここにそんなものを入れたら中には入り切らず、部分的に外に飛び出す格好になり、通りかかった誰もがそれを取っていくことができ、さらにはそのポストは屋内ではなく外に面していて、またさらにはその日は雨が降っていたから、商品が濡れる可能性もあり、とにかくどう考えてもポスト投函だけは避けたい状況なのでわざわざ事前に電話していたのだが、その最悪ケースを見事に踏んでくれた。

翌日になってポストからそれを引き抜き、開封すると、中の本の1冊は端が折れていて、心底うんざりしたが、第一にこれが配送の段階で生じたのか、梱包の段階で生じていたのかは誰にもわからないし、美品を再配達させたところで、それからまた何日も待たされる上、それがまたADPに持ってこられるのではかなわないので、もういいです、という感じになった。

*仮にヤマトが担当してくれるとしても、本来なら普通に配達されていたはずのものが何日も遅れて届くだけで、再配達を依頼する利点がほとんどないのでそんな依頼はしない、ということ。

これについては、Amazonのサポートにもあらためて連絡をして、「本当に困る。ADPなんとかしてほしい」と伝えた。サポートからは当の配達者にヒアリングしてもらったが、事前に伝えられていた要件を見落としてポストに入れてしまったという。「ああ、そうなんですね」という感じ。(繰り返しになるが、まったく信用していない)

ちなみにその苦情の際、Amazonのサポートには上記のポスト投函スタイルに変わった理由についても聞いてみたが、べつに10月以降に、Amazonの方でそういう配送方針の変更があった、ということはないらしい。むしろ、「以前からポスト投函できるものはしてもよい決まりである」とのこと。ただ業者によって、配達スタイルが違うので、今まで担当していた業者が玄関まで持ってきてくれるタイプだったのでは? という回答だった。

それはもちろん、Amazonのサポートがそう言うなら「そうですか」としか言いようがないが、実際うちの場合は10月に入ってからそのような変化があり、家族とも「今日は指定した時間より早く来ないな、珍しい」「もしかしたらポストに入れて帰っちゃったんじゃないの」「それはないでしょ〜」なんて冗談のつもりで話していたら本当にポスト投函されていた、というやり取りがあったぐらいなので、個人的な勘違いや思い込みということでもない(家族も自分と同様に認識していたということ)。

思い当たるところとしては、ちょうどそのぐらいの時期から「置き配」という配送方法がADPのときに限って設定できるようになったので、どうもそのシステムが始まったことと、このポスト投函方式が関連しているのでは、と思っているのだけど。

ちなみに、ADPが何も言わずポスト投函で帰ってしまう、という事象自体は他の地域では以前から普通にあったようで、とくに知りたいわけでもなかったが、冒頭のようにADPで検索するとそういう話ばっかりなので、わざわざ玄関まで持ってきてくれる、というのはたしかにAmazonサポートが言うとおり、業者によって異なるものだったのかもしれない。

今後の対応

いずれにしても、実際に来るまで「時間無視」で来るのか、「ポスト投函」になるかもわからないわけで、これでは終日受け取れる体制を取っている必要があり、時間指定をする意味がないというか、指定しないのと変わらない。

それに、初めから「今回はポスト投函です」とはっきりしていればまだありがたいというか、その前提でスケジュールを立てられるが、それもわからないのがタチが悪い。これも繰り返しになるが、「他の用事を入れずに待っていたのに、もう投函済みだった」というのはまったく最悪のユーザ体験である。

ということで、以前からそのように意識はしていたのだけど、今後はさらに、ADPが配達しそうなものはなるべくAmazonでは買わないように心がけるつもり。今まで以上に腐心したい。

また、万一ADPの配送になってしまったら、可能なかぎり迅速にキャンセルし、その商品自体についてはもう諦めるor別の店を探す、という感じにしたい。

そのようにしてしか、ADPによるストレスを逃れることはもうできない、と思うから。

なお、上記ではひたすらADPの悪いところばかりを書いたけど、実際には、それを誘発し、また成立させているのはAmazonだろうと思っている。そのような危なっかしい配送、つまり時間指定を無視したり、ユーザ体験をないがしろにするような方法を取らなければ、ADPの事業が成り立たないような前提をAmazon自体が作っているのだと思う。

ついでに言うと、ADPのドライバーさんたちは明るく、真面目な雰囲気で、感じがいい。たしかに時間を守らないことを徹底しているし、受け取る側に負担を与え続けているけれど、それは彼らの強固な意志とか、行動指針、あるいは客を人間ではない飯の種としか見ないある種の差別意識によるものというよりは、その彼らを雇用する会社の運営方針であり、またその会社に発注を行うAmazonを含めて、このシステム全体が求める必然的な帰結としてそうなっている印象がある。その意味でも、自分がAmazonを卒業するしかないんだろうと思っている。どちらかと言えば、その方が結論。

Uber Eatsを使ってみた

自宅がある町にもUber Eatsが来たので、使ってみた。

最近は家で仕事をする機会が多いのだけど、このときの悩みは昼食の選択肢が少ないことで、会社がある九段下、市ヶ谷辺りにはオフィスが多いこともあってか飲食店も多く、その飲食店が昼前後に販売している弁当もよりどりみどりなのだが、自宅近辺にはそういう選択肢がほとんどなく、飲食店で直接食べるか、コンビニか、という感じになってしまう。

また昼休憩は基本1時間なので、買い出しに行ってモノを選んで帰ってきて・・なんてやっていると、食事の時間は必然的に短くなり、あまりゆっくり休めない。

その点、こういう出前的なものが使えると、昼食に入る少し前に逆算してスマホからポチポチ注文しておいて、休憩に入ると同時に昼食、という感じで店への行き帰りの時間をゼロにできるし、なおかつ食事の選択肢も多くなるなど良いことづくめである。

デメリットとしては、まあ高くつく。のだけど、これはつまりお金で上記の便利さを買う、ということであって、それを許容できれば使うしもったいないと思えば使わない、といったところだろう。

初回は連休の中日ということもあってか、目をつけていたエスニック料理屋がやっておらず、いろいろ迷った末に結局ファミレスのセットメニューにしてみたが、悪くなかった。

ドライバーさんは迅速・丁寧で、少し会話をしたが爽やかな良い感じの人だった。そのドライバーさんが店にピックアップに向かってから自宅へ向かうまでの様子がリアルタイムにアプリの地図上を動いていて、これをじーっと見ながら待っているのがなんだか面白い。単に進捗が可視化されているだけとも言えるが、しかしたったそれだけの体験を今までにはしたことがなく、Uberすごいじゃん、と感心した。

一方で、アプリ等にはけっこう雑なところもあって、届け先の住所を登録してもその一部しか表示されなかったり部分的に英語になっていたりして不安を覚えるとか、プロフィール写真を登録したら昔のテレビ映画のように顔が縦長になってしまう*1とか、Uber大丈夫かと思わせるところが少なくない。

ちなみにUber、何年か前の段階ではアカウントの新規登録時点でメールアドレスの本人認証を行っていなかったので、インドだか東南アジアの誰かが勝手にぼくのメアドを使ってアカウントを作り、そのまま乗客として利用した履歴がメールに送られてきて驚いたことがある。(地図付き)

当時のUberはすでにライドシェアサービスとしてかなり有名だったので、「いまだにこんなザル仕様なのか」と思ったものだった。とりあえずサポートに「勝手にメアド使われてるんですが」と送ったら、「だったら削除しておいてください」と返ってきたので困惑し、「勝手に登録されたのはこちらの責任ではないのだからあなた方が対応すべきでは?」と返したら「やっておきました」と感情のない返信が来て、「こんなサービス二度と使うか」と憤ったことを今書きながら思い出した。二度と、というか一度も使っていなかったわけだが。

しかしそんなUberではあるが、上述のようなメリットは多いのでこのUber Eatsは引き続き使うかもしれない。技術は未熟だがアイデアと営業力(あと法務?)にリソースを投入してユーザに「それまでにない体験と効用」をもたらす、というこの存在が、状況によってはたしかに良きものであることを否定はできない。

ちなみに、近所では以前から「出前館」も営業していて、同じ理由で使おうと思ったことは何度もあったけど、対応店の少なさや最低注文金額(1500円以上とか)の存在、何より受け渡し時に料金を支払う必要があることを考えると(Uber Eatsはアプリ経由で支払えるため、受け渡し時に料金のやり取りをせずに済む)、今後自分がそれを使うことはしばらくないかな、という気もする。

逆にUber Eatsが今後この地域でサービスを続けられるかどうか、というのはドライバーさんの有無や能力次第、といったところだろうか。出前館のドライバーさんも正社員というよりはバイトなどかもしれないが、とはいえUber Eatsのドライバーさんに比べたら安定しているような気もしなくもないし(とくに根拠はない想像)。この辺、Uberがドライバーをどう扱ってるのかによる気もするが。

Uberは過去に様々な問題を起こしている企業で、「Uber 企業文化」などで検索すればその一旦を垣間見ることができる。2017年にスーザン・ファウラー氏が告発したセクハラ問題はとくに話題になったが、その前にも後にも尊敬できない話は尽きない。それに加えて上記の個人的な経験もあるわけで、正直進んで利用したいものではないが、とはいえある種のニーズには合致している。悩ましくも便利に使っていきたいところ。

*1:それなりの年齢の人じゃないとわからないかもしれないが。

嫌いなまま許容する

全人類と仲良くする必要はないし、できない。その努力も、取り組みもしない。

一方で、全人類と仲違いすることも難しい。きっと誰かとは、上手くいってしまう。仲良くなってしまう。

意見が異なる誰かと出会ったとき、自分が相手に合わせるか、相手が自分に合わせるか、ゴールはそのどちらかのみであり、片方が折れるまで戦い続けなければいけないのだと思っていた。

しかし、仮にそのようにして一人を倒したとしても、その向こうには無限のように多くの意見が異なる人たちがスタンバイしていて、だからそんなことをしていたら、一生戦い続けなければいけなくなってしまう。

そんな人生でよいのだろうか。自分が好きなことをして、それを味わい、限られた人生を生きてゆきたかったと、思いはしないだろうか。

たった一つの狭い部屋に、意見が異なる人たちといつまでも暮らし続けなければならないのならばともかく、実際には、道を1本曲がればもう一生、二度と会わないような人たちとの間で、意見を一致させるための戦いが本当に必要だろうか?

長い戦いの末に、ようやく意見の一致を見たとしても、その後に自分の考えが変わってしまったらどうなるだろうか。またイチから、これまで意見を統合し、納得し合ってきた相手たちと、新たな戦いをしなければならないのだろうか。

つまり、他人と意見を一致させることに大した価値はない。自分自身の中ですら、考えは常に変わる。考えが変わらないということは、考えていないということだ。

価値があるのは、意味があるのは、我々の誰もが、自分の人生を豊かに、思い通りに、自由に生きるということだ。それを実現するための方法を考え、実践することだ。

ラーメンが好きな人と、カレーが好きな人がいるなら、それぞれで食べればいい。どちらかが無理に相手に合わせて、食べたくないものを食べる必要はない。

相手のことが嫌いでも、わざわざ好きになる必要はなく、また好きになるために相手を変える必要もない。嫌いな相手のまま、互いに生きていることを許容し合える社会が理想だ。

つねに今が最新型

若者と年寄りの争いは絶えない。若者は社会においてさまざまな面で年寄りに負けているが、若さゆえの魅力とか、新しいものに関する知識とかではもちろん勝っているから、その点で年寄りに対抗しようと考える。

年寄りは自分が一番欲しい若さを日々失っていて、それを持っている若者に嫉妬しているが、そんなふうに言えば負けを認めることになるから、まず言わない。その代わりに、10代の若者に対しては自分の10代の頃の記憶をもとに、20代に対しては20代の頃のそれをもとに、当時の中でも最もパフォーマンスが良かった瞬間の自分と、現在を生きる若者全般の抽象的なイメージとを比べて、いかに自分の方が優れていたかを語る。

年寄りであれ、若者であれ、つねに現在がそれまでの人生で最新型の自分であるから、過去のどんな時点の自分よりも今の自分の方が絶対的に「正しく」生きているのだと思いこんでいる。以前は馬鹿だったが、今はそうではないのだと。そう思うことを繰り返しながら日々を連ねている。

この点においては、若者よりも年寄りのほうがたちが悪い。人間として生きた時間はいつでも年寄りの方が長く、上記のような思い込みがより強くなるからだ。

昨日の自分よりも今日の自分の方がマシだと考えることは悪いことではなく、時に生きることを助けるが、それは自分の中でのみ成り立つ論理であり、他者を含む社会全体の中でも「年寄りである自分の方が若者である誰かよりも優れている」ことにはまったくならないから、「今が最新型である」という思いがそのような勘違いにつながると、多くの人がつらい思いをする。

匿名・実名問題の立て直し

周期的に、匿名か実名か、みたいな問題が現れては消えていく。

今この時点ではとくにそういった話は出ていないと思うが(あるいはもう、周期的というより常時・恒常的に、微震のように現れ続けているのかもしれないが)、以前からこれについて、ぼんやり思っていたもののまだきちんと書いたことがなかった気がしたので(もしかしたら書いたかもしれないが)、ちょっと時間ができた今のうちに書いておきたい。

一般的に、匿名による文言、投稿、表現などには価値がないというか、無責任な立場からの発言であるがゆえに、実名でリスクを負ったそれよりも下のものとして扱ってよいかのような共通認識があるように思われ、それ自体は全体像としては同意なのだけど、細かい部分ではいろいろと例外も出てくる。

たとえば、内部告発みたいなこととか、少し前だと保育園に落ちた話とか、あるいは単に王様の耳はロバの耳的なウサ晴らしのためだとしても、その目的が他人を攻撃することにはないケース(結果的には誰かに損害を負わせることがあるとしても、一義的には別の目的があるということ)もあるわけで。

逆に、実名や職場を公表しながらも普通にヘイトを繰り返す人もいるわけで、これを上記のような「必然性のある匿名(空間)」よりも価値があるとはとても言えない。

またそれとは別に、いや匿名でも、一意に特定できる立場というのもあって、これはほとんど実名と同等の価値を持つのだという言い方もあり、これはブログやTwitterの有名アカウントで、普段何をしているのかはわからないけど専門的な背景を前提に一定の信頼を得ている人とか。これはペンネームで活動している(実名を公表していない)作家や団体なども含まれるだろうか。

さてそのうえで、上記のような腑分けや問題点を含めて、いやまあ、でも結局こう考えればシンプルじゃないの、という分け方があるように前々から思っていて、それは「収入を失う可能性に結びつく情報を公表しているかどうか」ということ。

たとえば上に挙げた、ペンネームで活動する人であれば、その人の実名や年齢、性別や出身地などがわからなくても、ネット上でおかしな発言をして信頼を失えば、仕事・収入の道は断たれてしまう。そういうリスクを背負って(逆に言えば、仕事や収入を増やしうる可能性も踏まえて)そういう人はネットで発信しているわけで、だからそういう人はそれなりの「責任」を持って立っていると評価して良いと思う。

一方で、仮に実名や住所その他の個人情報をすべて公開しているような人でも、おかしな発言、攻撃的な発言等によってとくに失うものがないような立場にある人は、「実名だから」といって「責任」を負って発言しているとは言えない。

あるいはそのバリエーションとして、ヘイト発言をするほど仕事や立場を確固たるものにし、少なくともそれによって職を追われるとか、収入を断たれるような状況にはないような人も、その発言にさしたる重みはないと言える。

言い換えると、どの程度自分の命と引き換えに発言しているのかということ。

大抵の場合、「変なことを言ってもべつに失うものはない・収入も命も断たれない」という半ば無敵な人と「匿名」の人は重なるから、その意味で匿名による発言の信頼性を低く見積もることは可能だが、それだけでは時々上述のような「例外」に遭遇することもあるから、その場合にはその「どれだけ自分の収入・生命と引き換えに発信しているのか」を見れば、その人に対する態度も定めやすくなるように思っている。