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堂々めぐり

あるひとつの問題に対して、AとBという2つの結論が考えられる場合、「Aにするか、Bにするか」と長い時間をかけて検討していると、その「時間をかけて検討する」ということ自体がなんだか悪いことのように思えてくる。

最初のうちは「Aの方が断然良い」と思っていたのが、少し考え直して「やっぱりBだろう」ということになり、しかしさらに考えを進めると「いや、やっぱりAだな」となったり。

あるいは、複数人で話し合っているうちに、最初はAが良いと言っていたのがBの方が優勢になって、それに決まりかけたと思ったら、最初と同じ理由でまたAの方が優勢になってしまったり。

そのような、いつまでも物事を決められない状況を、人は「優柔不断」、あるいは「堂々めぐり」と言うだろう。
いずれにせよ、あまり良い意味ではない。

最初の結論と、いろいろ考えた末の結論が異なれば、「考えた意味があったね」と納得しやすいが、堂々めぐりの末に結局最初の結論に戻ったりすると、「なんだ、最初のでよかったのかよ、じゃあいろいろ考えた時間が無駄だったじゃないか」と人は思ってしまいがちだ。

自分自身にそう思うぐらいならまだいいが、困るのは他人からそう言われてしまう場合である。

というか、現実の世界では、他人からそう言われるのがイヤだからこそ、AかBかでいつまでも悩むのが「よくないこと」とされがちなのではないかと思える。

しかしながら実のところ、堂々めぐりというのは反復横跳びのように、まったく同じ場所を行ったり来たりしているわけではない。

そこで実際に起きていることは、

判断材料が少ない段階で考えたら、Aの方が良さそうだった。

もう少し考えたら、新たな判断材料が加わった。それを元に考えたら、Bの方がいいとわかった。

さらに考えを進めたら、これまで考えてもみなかった別の判断材料も見つかった。それを考慮しないわけにはいかないから、それを加えて考え直したら、やっぱりAの方が妥当だった。

(以下しばらく続く)

みたいなことではないだろうか。

つまり、実際には考えれば考えるほど、また時間が経てば経つほどに、前提となる判断材料も変化していて、しかも大抵の場合は後になるほどより正確な情報が集まってくるから、外からパッと見て「単に同じところを行ったり来たりしているだけだろ」と思えても、現場で起こっていることは「毎回新たな問題に取り組んでいる」ような状況かもしれない。

あるいは、冒頭の例のように、一見「同じ理由で同じ案が再度採用された」ように見えても、その「同じ理由」とは実際にはいくつもの新たな議論を踏まえて生き返った根拠ということだから、同じように見えたとしてもその理解のされ方、存在の仕方は異なっているだろう。

「いつまでも結論が出ない状態」というのは、どうやら多くの人にとって不快なものであるようで、それはおそらく、その逆の「結論が出た状態」というのが一種の達成感というか、報酬を得たときのような快感につながるからだと思うが、そうした昂揚感を本来の目的とするギャンブルならばともかく、正しい(目的に対して最適な)答えを求めるための検討なり議論なりを行うのであれば、「一見すると堂々めぐり」のような状況を、「正しい答えを得るために正しい問いを作り続けている」のだと捉え直し、その「なかなか結論が出ない不安定さ」に耐える必要があるだろう。

このようなことを、最近では築地/豊洲の魚市場をめぐる一連の騒動を見ながらよく思った。

豊洲にするのか、築地にするのか、どっちでもいいから早く決めてくれ」とか、「結局豊洲にするなら今までに費やした時間が無駄だった、*億円分の税金をドブに捨てた」みたいなフレーズがたびたび聞かれて、心底うんざりしたものだった。

元々豊洲に市場を移す予定だったとしても、以前の知事時代にやっておくべき種々の処理をしていなかったのだから、上記のような「前提」が以前からは変わっているのだし、その後も日々刻々と「判断材料」としての情報が更新されているのだから、そこで行われている議論は「右か左か」のような二者択一のためのそれではなく、一段一段階段を登りつめていくような新たな観点の創出だったろう。

一見「最初に選んだ結論と同じ結論」のように見えても、それは「新たに生まれた別の結論」なのである。

もちろん、市場関係者の身になれば、当事者ごとに具体的な損害などもあり、簡単に語れるものではないが、「最初と同じ結論に至るなら議論や検討など不要だった」などという論理はないということ。

死後のブログ

もうどのぐらい前だったか、まだ1年は経っていないと思うが、以前にTwitterで以下のようなことを言ったら、*1

自分が死んだときのことを思うと、独自ドメインでブログ運営するよりも、ブログサービスで記事を公開しておいた方が長く世界に残りそうなので、ブログは独自ドメインではやらない。

tDiaryの開発者であるただただしさんから、「死ぬより先にそのブログサービスの方が終わってると思う(笑)」みたいなツッコミをもらったことがあった。*2

しかもこれはたださんだけでなく、ネットウォッチャーのおおつねさんからも同様のコメントをもらったので、「なるほど、ネットの古参の人たちはやっぱり見方が大局的だな〜」とそのときは普通に感心したのだったけど、よくよく考えると、元のツイートで言いたかったことは、そのツッコミの方向とはちょっとズレているようでもあった。

上記のたださんのツッコミというのは、たぶん今すぐの話ではなくて、たとえば今から30年後とか、どれだけ早くてもせいぜい10〜20年ぐらい先のことを想定して、ぼくで言ったらはてなブログを使っているから、「2030年頃にはもう『はてなブログ』自体なくなってるんじゃないの」みたいな意味だったと思うんだけど、ぼくが言いたかったのは「もし明日死んだとしたら、その時点から一番近い更新のタイミングでドメインが失効して、その後しばらくしたらもうそのサイトは見れなくなっちゃうんだから*3、それよりは今動いているブログサービスにデータを置いておいた方が記事が長生きするだろう」みたいなことだった。

つまり、今使っているブログサービスが、ぼくの寿命より長生きする必要はない。
そうではなく、もし死ぬ直前までブログを書いているのだとしたら、その記事は独自ドメインではないブログサービスに載せておいたいた方が、長く残るのではないか、みたいな話である。

以前にもこのブログで書いたかもしれないけど、時々興味がぶり返すのは、今後数十年のうちに、インターネットの草創期を彩った人々が鬼籍に入り始めたらどうなるのか、ということだ。

インターネットの土台は1960〜80年代頃に形作られたようだから(おぼろげな印象)、当時20代だった人ならまだ70〜80才ぐらいで、今の時点では現役で活躍していても全然おかしくないが、自然の流れとして、そういった人々から順に亡くなっていくだろう。

逆に言えば、まだ人類はそういう、インターネットが生まれてから活躍を始めた著名人たちの「死」というものをほとんど経験していない。

そして、それはやがて大きな波として、ぼくらの目の前に現れてくる。

おそらく、人々が本当の意味で「インターネット上の人間の死」を意識できるのはその頃からだろう。

身近に感じられる人、それも少なくない人々が、次々と亡くなっていく。

その波は、散発的に起きる大波のようなものではなく、水位全体が上昇しながらこちらへ向かってくる津波のように、しばらくの間は勢いを増し続けるはずだ。

すでにFacebookでは、それに類する対策が固まっているようだが、他のSNSや、ブログサービスなどでも、自分が死んだ後のデータのあり方について、ユーザー自身の希望を事前に選択させることが普通になっていくのではないだろうか。

ブログだったら、ユーザーの死後すぐに閉鎖するのか、それとも数年間残すのか、あるいは事前に決めておいたメッセージを掲示するのか、とかそういう。
選択肢によっては、前払いの有料サービスになるかもしれない。

そんなことをつらつら考えている。

*1:記憶で書いているので厳密には違うかもしれないが。

*2:これも記憶で書いてるので厳密には違うかも。

*3:実際には、利用者の死後にドメイン更新の手続きがどうなるのか知らないので、あくまで想像の話。

Twitterとタバコ

  • 近所に最近できたラーメン屋、店員がしょっちゅう外に出てタバコ休憩を取っている。
  • 1本吸って(時には携帯で喋りながら)、終わったら足元に捨ててつぶして店に戻る。
    • 自分の店の前なのに! ポイ捨て!
    • むしろ感心する。
  • 今どき、あそこまでタバコ依存の雰囲気を漂わす人めずらしいな・・と思っていたけど(しかもけっこう若い。せいぜい30代)、ふとそこで思ったのは、僕を含む多くの人が、仕事中にも関わらずポイポイTwitterに投稿している姿である。
  • そのタバコ休憩の人は、きっと店がちょっとヒマになるたびに、同僚に「ちょっとタバコ吸ってくる」と言って店を出てくるのだろう。
  • ラーメン屋でなくても、たとえば外回りのサラリーマンとか、あるいは事務職の人でも、「1本だけ吸ってから次行きます」みたいな感じのことが少なくないんじゃないか、と思う。
    • 実際そういう場面に遭遇したことが何度かある。
  • ぼくはタバコは吸わないし、自分がそういうことをしているとは思っていなかったが、しかし普段コンピュータを使って仕事をしている最中に、「あ、ちょっと思いついたことあるから一瞬ツイートしてくる」みたいなこととか、あるいは自分がツイートしなくても「んー、ちょっと煮詰まったから一瞬タイムライン見てくる」みたいになることは多々ある。
  • それって、まるっきり「ちょっと1本だけ吸ってきます」みたいな感じである。
  • ここに書いたこととも繋がるが

忙しい(はずの)人たちがその一方でボンボンTwitterに投稿しているの、投稿することによって脳内に何か快楽物質みたいなもの(アルコールとか麻薬みたいなやつ)が出ているからだと思うんだけど、そういう研究をしている人っているのだろうか。

  • やっぱりそれって、一言で言って依存ということなのだろう。
  • 今たまたま読んでいる『習慣の力』という本があるのだけど、そこではタバコ依存について、ニコチン自体の依存性というのはけっして高いものではなく(何日だったか、それほど多くない日数で抜ける)、しかし「これを吸えばあんな気持ちになれる」という、「報酬をもらった記憶・感覚」が習慣として体に染みついてしまっているから、そこから抜けるのが大変、みたいな感じで書いてあった。
  • Twitterにもやはり、そういう「ツイートすることによって得られるスッキリ感」というか、脳の報酬系を刺激するものがあって、それを求めて仕事中でも「ちょっと一服」という感じでやってしまうのかな、と思った。
    • この時の「報酬系」というのは、いいねやリプライのようなわかりやすいフィードバックもそうだけど、たぶんそれだけではなくて、それまで自分の頭の中だけにあった発想が外部にリリースされることによって、ある種の安心感というか、それが人類の歴史の一部に刻まれることでささやかな達成感のようなものが得られる、ということもあるのではないかと思っている。
    • その「明快な反応があるわけでもないけど確かに人類の記録として刻まれる感」みたいなことは、ココにも書いたけど、ようは

TLに流れてしまうということは、「べつにそれを見ようと思っていたわけではない人」の眼前にも強制的に置かれてしまう

  • という、その「強制性」とも言えるTwitterの性質が、地味ながら結果的にけっこうな影響を与えているのではないかと思いもする。
  • Twitterはだから、現代のタバコみたいなものと言えるだろう。

習慣の力 The Power of Habit (講談社+α文庫)

習慣の力 The Power of Habit (講談社+α文庫)

てにをはの混乱=視点の混乱

  • 意味のわかりづらい文章のいくつかは「てにをは」で失敗しているだけではないか、とふと思った。
  • 「てにをは」が間違ってる、というのはどういう状況かと考えると、主語が無秩序にコロコロ入れ替わってしまう、ということではないかとこれまたふと思った。
  • 主語が変わると、「てにをは」も変わるし、能動・受動も変わってしまう。
    • 私は手紙を受け取った。→OK
    • 手紙は私に受け取られた。→まあOK
    • 私は手紙に受け取った。→NG
  • 主語が変わるということは、ある状況を描写する際の「視点」というか、何を中心にその現象を描くか(筆者が何に関心を持ちながらその現象を描くか)、という意味での「話の重心」とも言えるものが変わるということでもある。
  • で、その視点とか重心とかをなかば無意識のうちにコロコロ替えてしまいながら(コントロールできないまま)、対象を描写する人というのがいるように思える。
  • 上記のとおり、視点が変われば主語も変わり、必然的に「てにをは」も適切に変換していかなければならないが、それはなかなか面倒というか、煩雑な操作を必要とすることだから、それが追いつかないままリリースされた文章が読みづらくなりがち、ということではないかと思った。
  • 逆に言うと、そのあたりの秩序をある程度保ちながら書かれた文章は読みやすい、ということかもしれない。
  • あるいは、そうした「視点」や「話の重心」が変わったときに、変わったよ、と読者に明示している文章が読みやすい、ということかもしれないが。

片岡義男「ボーイフレンド・ジャケット」

  • 片岡義男さんの「ボーイフレンド・ジャケット」を少し読み返していた。
    • 小説にかぎらず、片岡さんの文章はむちゃくちゃ読みやすい。べつに砕けた喋り方とか口語体とかを使っているわけではなく、どちらかといえばむしろまどろっこしいような、冗長とも言えそうな「〜なのですけど」みたいな言い回しの方が多く感じられるが、論理が綺麗に流れているので、読んでいてギモンが生じない。
    • あれ、この作者は結局なにを言いたいんだ? という無用な迷路にはまらずに済む。
    • 作者が赤と言いたいのでも黒と言いたいのでもよくて、あるいは「自分でもよくわからないんだ」と言いたいのでも構わないのだけど、作者が本来言いたいことを自分で言えてない(黒と言いたいのだけど読者に伝わらない)、みたいな文章は読んでいてけっこう困る。というか、時間が無駄になりやすい。
    • 片岡さんの文章は読んでいてそういう感じにならない。
      • 片岡さんが実際に何を言いたいかはもちろんぼくにはわからない(あるいは読み終えるまで何とも言えない)のだけど、「これ、どういう意味だろう」みたいに思うことがほとんどない。
    • 逆に、「何を言いたいのかよくわからない文章」がなぜ生まれてしまうのかと考えると、たぶん「言いたいこと」や「伝えたいイメージ」というのが強すぎて、それをうまく表現できないまま、うまく表現できていないことを修正しきることなく公開してしまうからではないか、と思える。
      • だとすれば、その気持ちというか状況はよくわかるし、というかぼく自身そういうことはよくある。
    • 片岡さんの場合は、そういう「伝えたいイメージ」のようなものを文章で言い当てる技術が大変高いか、上記のような混乱を上手く収められるまで公開しないか、その両方か、あるいはそのどれとも関係ないのか、どうなんだろう。
  • そうした技術的(?)なことだけでなく、特徴的だと思えるのは、登場人物に紋切り型の性格の人が出てこない、というのがあると思う。
    • 単純な悪者や、正義の人はおらず、出てくる人はみな「自分なりの」考えとかスタイルとかを持っている。
    • いや、それではうまく言い当てられていない。
    • ここで言いたいのは、ほとんどそういう人だけで物語が構成されている、ということだ。
    • 片岡さんの書くものにかぎらず、面白い小説にはどれも魅力的な登場人物が出てくるものだけど、同時に大抵の小説には、読者に憤りや不安を与えるような「悪者」とか、その場限りの脇役などが出てきて、それらがなんというか、読者の想定どおりに動いたり喋ったりしてしまうことが少なくない。
      • 読者の想定通りに動いたり喋ったりするというのはどういうことかというと、他の作品で誰かのやったり言ったりしたことをそのまま使ってしまう、みたいなことで、それ自体の良し悪しよりも、「こういうキャラクターはこういう場面でこういうことを言うだろう」みたいな、『型』から出ない人物であることに問題がある。
      • それの何が問題なのかというと、そこで登場する悪役なり脇役というのは、あくまで「悪役が必要だから」という理由で出てきただけのことで、その悪役が「人間」として扱われていない(描写されていない)ことに問題がある。
    • 悪役が必要だから「悪役っぽいやつ」を出す。あるいはただ偶然そこを通りがかかって、ふとその後の展開を大きく変えるヒントになりそうな一言だけを呟く脇役がほしくなったから「毒にも薬にもならない脇役っぽいやつ」を出す。
      • どこかで見たようなキャラクターが、どこかで見たようなセリフを言う。
    • こういうことをしていると、読者は作品世界から簡単に脱出できてしまう。
    • 片岡さんの作品の中には、そういう登場人物はほとんど(あるいは多分まったく)出てこない。
    • そこには、その作品世界への通行許可証を持った人だけが出てくる。
      • 普段、他の作家の作品に出入りしているようなキャラクターは、そこへ入ってはこれない。
    • と同時に、その人物たちはどこまでもリアルであるように思える。べつに荒唐無稽な、非現実的な人ばかりというわけではない。
      • すぐ隣、電車でシートに座ったらたまたま隣りに座ったその人かもしれない、というような人が出てくる。
  • そして、さらに言えることとして、片岡さんの作品に出てくる登場人物というのは、単に「紋切り型のことを言わない」というだけではなく、すでに登場人物どうしで同じコンテキストを共有している、というようなところがある。
    • 個人的には、その点こそが片岡さんの作品の大きな特徴であるように感じられる。
    • そこで言う「コンテキスト」というのは、文脈とか前提とか言うこともできるが、より言葉を費やして言うと、そのそれぞれの人が人生を生きる上で大事にしていることが同じというか、似ているというか、近いということを指している。
    • 片岡さんの作品の中では、登場人物が皆同じものを人生を生きる上で大切にしている。
    • 一方、現実世界では、むしろそれらをすり合わせることにこそ多くの時間や労力を費やすことになるわけで、その作品の中で実現している世界、行為、会話は、まるで夢のようだ。
      • つまり、それは夢のようだからこそ、現実世界の中で読んで面白いし、現実を忘れられるし、しかし登場する人たちそれ自体は上記のとおり、どこにでもいそうな、もしかしたら自分もそうあることができるかもしれない人たちだから、本を閉じたらなんとなく気分がリフレッシュされて、もう少し頑張るかみたいになりやすいのかもしれない。
    • 本を読んでいる間、現実逃避できるというのは大切なことだ。
      • 昔、中島らもの本を読んでいたら、アントナン・アルトーの引用だったか、
      • > 詩は歴史に対して垂直に立つ
      • みたいなことを言っていた記憶があるのだけど、そこで言う「歴史」はここで言う「現実」であり、「詩」はここで言う片岡さんの作品なのだろうと思う。

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