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時代を「変える」のではなく「早送り」する

少し前に書いた、最近読んでいる本としては朝鮮関連のものをいくつか紹介したけれど、

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その流れで、韓国発の以下の本を読んで、

とくに最後の本には感銘を受け、その流れで差別やフェミニズム関係の言説なり本なりに興味を惹かれているところ。

その後、下記も買って読んだり。

前者は女性が平等を求めて権利を獲得していく歴史を絵本形式でまとめたもの。

後者はそれをラジオで紹介していた、という流れで知った荻上チキさんのエッセイ。

後者のエッセイは一日で読み終わるぐらいスラスラ読める上手い文章。硬派なテーマが多い人だと思っていたけど、その素顔というのか、普段着な様子を真摯に記していく感じで、とても良かった。

絵本の方はある意味逆というか、サラッと見終わるかと思いきやものすごい重厚というか、文章量はけっして多くないんだけど、情報の質がいちいちグッと重くて、なかなか簡単には終わらない、終われない。最後まで行ったときにはちょっと疲労を感じるぐらい。でも、大変おもしろかった。

ちなみに、絵本の帯には伊藤詩織さんの推薦文付き。編集者・出版社の気合を感じる。もちろん、伊藤さんや訳者さんも含めて関係者全体のそれでもあるが。

ああ、まったく、どうしてこんなにもありえないような差別や抑圧が、いつまでもあり続けるのか。うんざりするような気分にもなる。

しかしその絵本で紹介されているような、昔の状況に比べたらだいぶマシだとも言えるは言える。と同時に、さらにしかし、そのようなマシな世界になってきたのはやはりそういった、白い目で見られながらも戦ってきた人たちがいたからで、ほっといてもそうなった、ということではないとビシビシ感じる。

ぼくのような、後から生まれてきたり、外側の安全なところでボーッとしている人間からすれば、「ほっといても世界は良くなる」というふうに見えもするし、その観点に限定すればたしかにそうとも言えるけど、ほっといても自動的に世界が良くなってきたように見えるのは、それぞれの現場で実際に手作業で世界の善を前進・加速させてきた人たちがいたからで、もしもその人たちがいなかったら、前進のスピードはずっと遅く、いや場合によっては逆行して、ぼくがいま享受しているような自由を、まだ体験できてはいなかったかもしれない。

はたから見て、世界はほっといてもそのうちどんどん良くなっていくのだとして、でもそのいわば進捗が、この2019年の段階でどこまで進んでいるのか、どのぐらい快適で自由で平等な社会になっているのかという現象・事実の状態については、その改善のために行動する人たち一人ひとりの存在が密接に結びつき、影響していて、世界がどれだけ速く進化するのか、それとも遅い進化に留まるのか、ということについては誰もが予測できず、不確実なものとして抱え続けるしかない。

もしもかつて世界を良くするために行動した人たちが、現実のそれよりも少なかったら、ぼくが享受する自由はまだ19世紀のそれだったかもしれないし、そうなっていてもまったく文句は言えない。実際にはそうではなく、少なくとも今あるような自由を経験できているのは、そういう過去のすごい人たちがいたからで、ぼくはだから、そういう人たちは世界を変えたというより、時代を早回ししてくれたのだと感じている。

結局のところ、人間一人ひとりが味わえる人生の時間は限られていて、その間にどこまで行けるのか、どこまでを体験できるのか。ゆくゆくはもっと良くなるとしても、その実現が自分の死後では困るというか、もったいない。「ほっといても良くなる」のはおおむね事実かもしれないが、より身近でより直接的な問題は、それが「どのぐらいのスピードで」良くなっていくのかということだろう。

自然な流れに任せるのではなく、自分のアクションを通して少しでも速く時代を先に進めることができるなら、そうしなければいけないと思っているところ。