- 先週の月曜からTwitterの利用機会を減らしてみたが、とりあえず投稿を減らしただけでそれなりに時間が増えた気はする。
- やはり投稿をすると、そこですべて終わるわけではなくて、そこから派生する反応なり対応なりも増えるので、集中期にこれをやっていると業務の効率が悪くなる気がする。
- と同時に、つくづく思うのは「読まれる場所がなければそもそも書かない」という現象があるな、ということ。
- 考えたこととか、やったこととか、見たこと、聞いたことなどのメモがとくにそれ。
- つまり、書きたいこと(言いたいこと)があるから言うわけではなく、読む人、聞く人がいるから何かを言いたくなる、という状況があると思える。
- 世の中には「使いやすいメモツール」「書きやすいUI」などと言われるものがよく出回るが、本当に「サクサク書けるメモツール」というものがあるとすれば、それはエディタとかメモアプリとかを工夫して実現するようなものではなく、「聞いてくれる人や場所」こそがそれなのだとあらためて感じる。
- まあ、そんな言い方はメタ的というか、ある意味で目的の軸を外した視点だから、ちょっとズレている気もするが、「ああ、意見がスラスラ出てくるなあ」と感じるのはアプリや紙製品などのツール類を変えたときとかではなく、そういう「聞き手の集まっている場所」にいるときだな、と思うということ。
Twitterの強制性
- その繋がりで思ったことだが、TwitterでもFacebookでも、そこにいる人たちというのは、仮に自分をフォローしているのだとしても、べつにぼくの話を聞くためにそこにいる(ログインしている)わけではない。
- ぼくを含めて、その人がフォローしているいろんな人たちの投稿を(あるいはRTで回ってくる投稿を)眺めるためにそこにいる。
- そのような場所に何か投稿するというのは、ある意味で強制的に、自分の意見を「その人たちの目の中に入れる」行為であると言える。
- それは本やパンフレットを相手に渡して、「内容を知りたければ自分の手でページを開いて読んでください」というような状況ではなくて、たまたまそこに居合わせた人たちに100%読まれるという前提で、自分の投稿を送り出すという状況である。
- その強制性のようなものが、上記のような「サクサク書けるメモツール」的状況を生み出しているようにも感じられる。
- パッと書いて投稿すれば、相手が(自分をフォローしている人が)その瞬間にぼくの投稿を読みたいと思っていようが、いまいが、自動的にその人たちの目の前に「確実に」現れる。
- 自分は料理だけしてカウンターに皿を置けば、あとはウェイターが客のもとまで自動で運んでくれる。客がどの程度いるかはわからないが、ゼロではない。自分の店に来店している(自分をフォローしている)人には少なくとも漏れなく届けられる。そんな状況がある。
- これは駅前で行われる街頭演説とか、休日の路上で行われる大道芸とか、あるいはそうしたところで見られる各種のパフォーマンス・アートとか、そういうものにも似ている。
- たまたまそこを通りがかった人には、その内容が好きであろうが嫌いであろうが、否応なしにそのパフォーマンスが目に入ってしまう。
- 街頭演説なりパフォーマンスなりをしている人は、もちろんそれをわかっていて、というかそれをメリットととらえて、それをやっている。
- もはやこの場合は、飲食店とかTwitterとか以上に不特定多数を相手として想定しているというか、自分を見る前提ではない人たちまで相手にしている、という面はあるにせよ。
- しかしまあ、RTなんていうのはある意味それに近接しているか。RTされた元の投稿を書いている人は、自分をフォローしていない人にまでその投稿が届くという前提を必ずしも持っているわけではないのだから。
- そしてこの強制性というか、「書けば必ずある程度の人々のもとに届けられる」という前提があるからこそ生まれてくる意見、というものがあると思える。
- ぼくの場合は、今その「場」というか、前提自体を最小化することによって、そうした「場があることによって生まれてくる書きたいこと」をも最小化し、その書きたいこと(伝えたいこと)を減らすことによって、集中期の業務をなんとか乗り切ろうとしているわけだけど、まあしかし、時々こうしてブログなどでアウトプットしていると、Twitterほど頻繁ではないにせよ、やっぱり「場があることにより生まれる言いたいこと」というのは出てきてしまうな、とこれを書きながら思った。
- こんなにまた長くなるという前提はまったくなかったので。
*1:3本だった。