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2016-09-20 Tue: 信頼を失う・お宝・Panasonic

  • 猛烈に忙しいここ半月だった。前回の日記が3週間前だったのでだいたいそれと同期している。
  • 昨日おとといぐらいは1日あたりの作業時間が年間ベスト3に入る勢いだった。
  • 今日火曜の午後3時過ぎぐらいにそのピークが一旦過ぎた。人間に戻った。という感じ。
  • じつは昨日月曜の夜にも一旦ブログを再開しようと思って書きはじめたのだったが、あまりに疲労がすごくて途中で断念した。本当に疲れると数行のブログすら書けない。
  • 今日はサッカー雑誌のインタビュー記事に関する捏造疑惑が話題になっていた。率直な感想、いたたまれない……。
  • 疑惑告発的な案件に関しては、基本的には告発する側が最後まで証明すべきだと思うが、本件については告発側がけっこうしつこく出来ることをやっている感じなので、結論的には「あとは読者が決める」という感じなのだろう。
  • 告発している側は誰でも確認できる事実を並べて「この事実をもとに推測すればこうなるよね」という論法を用いているので、受ける側も同様に、誰でも検証できる事実を並べて「この材料をもとに論理的に考えればそれは間違っていて、こう捉えるのが筋だろう」と言わないと信頼は得づらい気がする。
  • 信頼といえば、「信頼を得るには時間がかかるが失うのは一瞬だ」みたいな話がよくあって、しかしそれは本当か? と最近よく思っている。
  • もし誰かが何か一つ決定的なミスをして、そのミスした人を信頼できなくなった、なんて状況があったなら、そもそもそれまでにしてもその人に対して曖昧な根拠をもとにぼんやり「信頼っぽい何か」をしていただけでは、という感じがする。
  • ぼくにとって「信頼」というのは「シャワーでお湯の蛇口をひねればちゃんとお湯が出てくる」とか、「お気に入りのボールペンで文字を書いたらいつもどおりのインクの出方をする」とかいったことで、これを抽象化して言えば「これまで出来ていたことが今後もできることを期待・予測できる」ということだ。
  • 何か一つ、期待していたとおりの動作をしなくなったとしても、それはべつにこれまできちんと動作していたことを否定する理由にはならない。ボールペンならインクが切れたというだけのことだし、シャワーなら蛇口のネジがゆるんだのかもしれない。
  • 「信頼を一瞬で失う」というのは、それまで出してきた結果・成果・実績が立ちどころに全部「なかったことになる」ということで、しかし「全部なかったことにできるような成果」とはどんなものだろう? ちょっと想像がつかない。
  • 言い換えると、そのようなことが実現されるなら最初からそのような成果はなかったのではないか、ということ。
  • さらに言い換えれば、普段着実にそれなりの成果を出しているなら、一度や二度の失敗で「信頼=それまでに積み上げてきた実績」を失うなんてことはないのでは、と考えている。
  • 夜、「なんでも鑑定団」を見ていたのだけど、1500万円だかで購入した仏像がニセ物だったそうだ(結果だけ見逃したので家族から聞いた)。本人は「本当のことがわかったからよかった」と殊勝なことを言っていたようだけど、いやそれ、普通に売っている人、犯罪なのではないか・・?
  • というか同番組、お宝の内容を紹介するための映像部分が良くできているので時々見るのだけど、しかしどう考えてもこの「ニセ物でした、残念!(笑)」という、この最後の(笑)が理解できない。いやそれ、詐欺じゃないの? 売った人に問題はないの? ・・謎である。
  • リオ・パラリンピックのまとめ的な番組をEテレで見ていた。閉会式の様子を映していて、東京との引き継ぎパフォーマンスのところ、前半は「ああ、カッコイイね、音楽も綺麗だね」なんてふうに見ていたが、ピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」が流れはじめたあたりから「・・あれ」という感じになって、その辺でようやく気づいたのだけど、パフォーマンスの一番目立つスクリーンの場所にピカーンと「Panasonic」のロゴが映っていて「ああ・・」という感じになった。
  • どうしてあんなところに企業ロゴを出しているのだろう? まったく理解できない。宣伝のつもりなら個人的にはまったく逆効果だった。そのスクリーンでどんなに先進的な映像を流していようと、その前でどんなに目を見張るダンスをしていようと、どんなにカッコイイ音楽が流れていようと、暗闇の中で一番光を放って目立つ場所に置かれているのはそのロゴなのだ。周りのパフォーマンスとの同期もなければ調和もない。ただひたすら無視しようのない輝きで「このスクリーンを作ったのはPanasonicです」というメッセージを放っている。
  • どうしてあそこにロゴを出しっぱなしにしよう、と思えたのだろう。憤りに近い諦めを感じた。あまりにも視野が狭い。その場にいる選手も、パフォーマーも、お客さんも、スタッフも、すべてがそのロゴのもとに等しく軽んじられている。あの場であのロゴが燦然と輝いて、誇らしい気分になった人がいるのだろうか?
  • 実在の誰かがそうするように求めたのだろう。その人には悪意もなかったに違いない。しかしそれゆえに、救いがない。胸を締めつけられるような思いをした。