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同時に発生するメリットとデメリットをセットで語る

これを書き始める直前に気づいたけど、ちょうど1年前にこれを書いたのだった。

そして今また、以下の記事が話題になっている。

率直に言って、この内容には胸を打たれた。感動した、と言えばウェットに過ぎるかもしれないが、それに近い何かを感じた。

その感覚の一因は――そして現在この話が話題になっている理由のいくらかは――、この作業が1年かけて果たされた、という説明にあると思う。
本当に1年かけたのかはもちろん本人以外にわからないが、そうなのかもしれない、と思わせる説得力は感じてしまう。
(ブログが前回からほぼ1年更新されていないことなどからも)

ぼくは原文も、改訂版が作られるきっかけになった無料非公式版訳も読んでいないし、これからも読むことはほぼ無いように思うので、ここで言われていることが事実かどうか(つまり改定前のものが本当に誤訳の多い物だったのかなど)は論点ではなく、以下の点についてだけ書こうと思った。

というのは、実は冒頭に挙げた1年前に書いた記事で話題にしたのと結局同じ話なのだけど、「正しいことを指摘するにしても言い方ってものがあるだろ問題」みたいなことだ。

同氏というのは結局「言っていることは正しいが口が悪い(=口は悪いが言っていることは正しい)」と言われるケースが多いようで、だから突っ込まれるのは1年前も今回も「同じことをもっと丁寧に言いなさいよ」ということだ。

で、それが氏への〈助言〉として語られるのであればとくに異論はないのだけれど、氏への〈批判〉として、つまり「口が悪いからやっていることも駄目」となるとちょっと問題があると感じる。

車を走らせれば排気ガスは出るし、電気を使うなら原発が必要になる(少なくとも特定の地域や時期においては)、というのと同じ論理で、アクションを起こす以上デメリットは必ず生じるのであって、結局はどちらのデメリットをアリにするか、という話になる。

無論、理想としては「正しいことを正しい言い方で言う」ことができればそれ以上のことはないし、それを求めて助言する、というなら上記の通り理解できるが、そうでなければならない、という批判になると、なんというか、どんなに偉い立場になればそのようなことを言えるのか、と感じてしまう。

同氏における口の悪い表現、というのは僕から見ると上記の例にある「車が走れば排気ガスが出る」の排気ガスのようなものだと思われる。それはたゆまぬ改善の中で、減らしたり無くしたりすることもできるかもしれないが、少なくとも今走っている車は排気ガスを出さずには進めないのであって、それ以上でも以下でもない。

もしその車の排気ガスが嫌だ、というならば関わらなければいいだけのところ、排気ガスを出すことのみを取り上げてそれを駄目だと言ったり、「頑張れば排気ガスを出さない車も作れるはず」みたいな高い目標を当然のことのように突きつけるのは変だと感じる。

排気ガスの問題性を取り上げるのであれば、それを排しながら達せられた〈成果〉をセットで取り上げるべきだと思うし、より高い目標の達成を求めるのであれば、それを言う自分はどうなのか、それは出来て当然なのか、といった実情をセットで語る必要があるのではないか、と考えている。