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仲間は仲が悪くていい

先月ついに40になってしまった。自分が40歳になったところを今までに一度でも想像したことがあっただろうか?

・・といっても、年を重ねることの感慨について語りたいわけではなく(そんなの読むのも退屈だし)、しかしそのメリットのようなものを感じることはあるのでそれについて書いてみる。

尊敬する諸先輩方に比べればまだまだではあるにせよ、多少なり仕事の経験を積んでくると、「こいつ自信満々で喋ってるけど、根拠ないよな・・思いつきだろ」とか、「ああ、また非効率なことを何も考えずにスタートしてる・・この企画、やがて死ぬ」とかいう想像がつきやすくなってくる。

そうした想像がいつも当たるわけではないにせよ、一定の割合で思ったとおりかそれを上回るカタストロフィに直面することはあるわけで、そのような未来を避けるべく、それなりの論理と共に懸念や対案を事前に伝えられるようになったこと、またわずかなりとも耳を傾けてもらいやすくなったことには、やはりある程度の年齢になったことが理由として挙げられると思う。

そのような死の予感(プロジェクトの)を実際には以前から感じることがあったものの、まだ経験も自信もほとんどない頃だと、口に出して何とか伝えてみても、相手から「今までこれでやってきたから問題ないし、黙ってろ」とか、そのたぐいの理屈になっていない理屈を虚勢とともに返されては「なるほど・・じゃあ、まあいいか(面倒だし)」と意見を引っ込めてしまったり、あるいはそこで学習して口に出すこと自体を諦めてしまったりしたものだった。

しかし、そのように保身を目的に諦める方を選択したところで、結局は関係者もろとも奈落の底に落ちていくだけという帰結を味わうにつけ、「言っても言わなくても地獄なら、言った地獄のほうがいいな」と思うようになった。

僕としても、以前は作業チームとは仲良く円満にやれればそれに越したことはない、と思っていた。

根本的にはそれは今も同様で、毎日殴り合いをして過ごしたいとは思わないが、上記のような気付きを経てしばらく前から実践しているのは、「思ったことは忌憚なく言う」ということだ。

それを言うことによって、チームメイトとの関係が一時的には悪くなるかもしれないが、言わないことによって後々大きな被害をこうむるのは僕だけでないチーム全体であり、それを擁する組織である。

もしメンバー間の短期的な「仲の良さ」がプロジェクトよりも優先されると言えるなら話は別だが、僕としては最優位に置くべきは「共通の目的」を実現させることであると考える。

仲間とは、プロジェクトの成功のために個々の専門技術を見込まれて結成されるものであり、キャッキャウフフと笑い合い水を掛け合い酒を飲んではただぬるやかな時間を過ごすためにあるものではない。

というか、そのような享楽の日々を送るのであれば仕事の仲間などではなくもっと大切な人を相手に選ぶ。

個人的な趣味嗜好を味わうためではなく、特定のプロジェクトを遂行するためにそれぞれの分野に秀でた専門家が必要なのであって、それがすなわち仕事の仲間である。そうしたバラバラの個の力を最大限に引き出し合うことが肝要なのであって、それは必ずしも相手に「いい気分」になってもらうことを意味しない。

カッと頭に血がのぼるような、罵倒が応酬される緊張感に満ちた場であっても、実際に取り交わされる行動の内容が高いレベルにあるならそれで目的は果たしている。

もちろん相手の尊厳を貶めることが目的なわけではないから、口に出す表現は穏当であるに越したことはないが、人はつねにその両方を取ることはできない。つまり、必要な情報をやり取りしながら、親切さ・寛容さをも合わせ持つということは人間にはハードルが高い。
極限のところで作業をしていることもあるだろうし、たんにキャパシティ、能力としてどちらかしか取れない、ということもあるはずだ。

このようなとき、僕らが最終的に採るべきは、「メンバーの機嫌を取ること」ではなく、「プロジェクトを成功へ導くために最適なアクション」である。

これを意識するようになって、おそらくもうここ数年、近い距離で作業を共にする仲間には結構平気で思ったことを言うようになった。

ぼくは粘着質というか、細かい不明点をどこまでもしつこく追求するようなところがあるから、相手によっては辟易するに違いないが、今のところ大きな問題には発展していないように見える。

自分で言うが、そのような大事故・大怪我が生じていない理由には、「相手を貶めること」が目的化しないよう意識しているから、ということがあると思う。
言い換えれば、何があっても「相手への敬意を手放さない」ということであり、それはまた、可能な限り相手の気持ちを想像するということでもある。

上記のとおり、僕は時にメンバーに対して、生じたミスの原因をしつこく聞き続ける。「なぜそんなことになったの? 何を考えてそんなことをしたの?」みたいなことを繰り返し言う。
これは見方によっては、相手を責めるだけで何の解決にも繋がっていないとか、メンバーのモチベーションを落とす効果しかないとか思われるかもしれないし、事実相手によってはそのような作用を及ぼしかねないとも思う。

しかしだからといって、原因を究明しないまま事態を放置したらどうなるだろう?
もちろん、再発する。そして、そのデメリットを僕らは(その行為者も含めて)全員でひっかぶることになる。

状況にもよるが、全体に及ぼすデメリットにまで意識が回らず、責められている自分にだけ関心が集中してしまうメンバーが居るならば、そのこと自体が問題だ。それは、チームの目的を共有できていないということだからだ。

だから僕は誤解を経ることは承知の上で、意図がズレて伝わるならばそのズレが埋まるまで、また同時に「原因を突きとめる」という目的がブレないように、徹底して不明点を明らかにしていく。

副作用と言うべきか、本来の作用と言うべきか、これをやると自分の思い込みが露わになることもある。他人の非によると思っていたミスが、そのように逃げ場のない、誤魔化しようのない質問や指摘を繰り返す中で、じつは自分の思い込みや見落としに端を発した(あるいはそれが少なくとも発生に際して不可欠な要素になっている)ミスだった、ということがわかったりする。

僕が嫌いな言葉に、「頑張ります」とか「気をつけます」とか「精進します」というものがある。
具体性に欠ける、何かを言っているようで何も言っていない儚い宣言だ。

もちろん、言葉は文脈によってあらゆる意味をまとうから、その言葉自体を狩るわけではない。適切な場面でそれが使われることもある。

僕が嫌いなのは、本来であれば具体的な原因と改善策を挙げるべき場面で使われる、それらの言葉だ。
そのような状況でそのようなことを言うのは、「事態を改善したいから」でも「再発を防止したいから」でもなく、「自分を良く見てほしいから」であり、それは「仲間は仲良くあるべき」という無意識の前提に繋がっている。

確かに、日常を過ごす中で軋轢や葛藤を避けるメリットは多くあるに違いないが、同時にそのことが、上記のように関係者全体への被害として降りかかることも少なくなく、僕としてはそのようなどこへも向かわない調和よりも、初めて目にする新たな成果、その達成を目指したい。

このような意識のもと僕はチームを運営しているから、その雰囲気は時々悪い。ギスギスしたり、湿った嫌な空気に包まれたり、それが何日も続いたりする。

しかし結果に目を向けるなら、そのようなコミュニケーションを続ける中で、僕らのプロジェクトは日々改善され、それによりチームには自信が付き、それが仲間への信頼に繋がり、少なくともこうして人前にそのことを示せる程度には上手くいっている。