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本を読んで理解するとは自分の中で新たに作るということ

2006年というからもう8〜9年前のことだけど、西條剛央さんと池田清彦さんの共著というか対談本で、『科学の剣 哲学の魔法』という本を国立の書店で見つけて買って読んだ。

科学の剣 哲学の魔法―対談 構造主義科学論から構造構成主義への継承

科学の剣 哲学の魔法―対談 構造主義科学論から構造構成主義への継承

国立には当時よく髪を切りに行っていて、その帰りに増田書店で本を買ったり、駅前のユニオンでCDを見たりするのが習慣だった。

増田書店の地下にはいわゆる人文系というか、社会学や哲学なんかの本が豊富にそろっていて、大学卒業〜三十代へ至ろうとする当時の僕にはなんというか、キラキラした、知的好奇心を刺激する素敵な場所だった。

西條さんの名前は、その少し前に実質的なデビュー作『構造構成主義とは何か』が出たという話をmixi竹田青嗣コミュで見て、知っていた。なぜ竹田青嗣コミュなのかというと、同書では竹田青嗣さんの哲学が扱われていて、その流れで誰か関係者がそこで宣伝した、みたいなことのようだった*1

僕は大学時代の鬱屈した時期に竹田青嗣さんの『自分を知るための哲学入門』をけっこう何度も読んでいたから、さっそく同書も読んでみたいと思ったが、Amazonのアカウントも持っていなかった頃で、自分が立ち寄るような本屋になかなか同書はなく、そのような時にちょうど入った増田書店で探したら、『構造構成主義とは何か』はなかったけど、この『科学の剣 哲学の魔法』はあった、みたいな感じだったと思う。

僕はどちらかと言うとより硬派な、カタめの本にぶつかって自分を引き締めたい、という風な理想を持っていたから、せっかく初めて「構造構成主義」なるものに触れるなら、最初は本家たる『構造構成主義とは何か』から入りたかったし、こういう軟派な(と勝手に思った)いかにも敷居が低そうな対談本から入るのはイヤだなあ、などと偉そうに思って、一度は「今日はとりあえずやめとこう」とも思ったのだけど、そのまましばらく逡巡して、「やっぱりその思想の一端には早く触れておきたい・・」という欲望に負けて結局買って帰った。

帰宅してさっそく読み始めた『科学の剣 哲学の魔法』は、予想を遥かに上回る面白さだった。むさぼるように、とはよく言うけれど、まさにそんな感じで読んだ。しかもそのときだけ熱中したとかではなく、しばらく経ってからも何度も読み返し、そのつどすごく面白かった。

いま、久しぶりに本棚から引っ張りだして開いたらけっこう笑ったのが、大半のページに折り目や付箋が付けられて、ことあるごとに赤鉛筆で線が引かれまくっているので、まったくそれらマーキングの意味がない。しかしまあ、そのぐらい読んだということだ。たぶん、他のどの本よりも折り目をつけて、線を引き、思ったことを余白に書き込んだだろう。

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※重要と感じたページほど深く折っている・・

本書のことを思い出したのは、その中でとくに印象的なフレーズがあって(というか多くの印象的なフレーズがあるけど、最近思い出したものがその中のそれ、ということ)、それは池田先生による以下の発言だった。

池田: 一年ちょっとぐらい前に山梨大の尾見君が「構造主義科学論をおもしろいと言っている人がいるよ」と言って何か話してくれないかというから、「じゃあ、しゃべりましょう」と言ったわけ。そのとき初めて若い人が構造主義科学論のことをおもしろがっていると知ってびっくりしたんだよ。それで、君と会ったら君が、真っ赤に線が引いてある僕の本を見せてくれて、「池田先生より読んだと思います」って言ったので、「確かに間違いない」って思った(笑)。

それで、僕が思ったのは、僕の本をきっかけにして、あなたが、僕と同じことを自分の頭でつくったんだよ。それは、私の本がきっかけになったんだけど、実は西條君が自分の頭のなかで同じようなものを構築したんだ。だから腑に落ちたんだ。理論とはそういうもので、理論の継承とかいうけれど、人間の頭はコンピュータじゃないから、ただインストールすればそのままいくというものではない。(略)僕の言説が君の中に腑に落ちて、矛盾なく収まったということは、僕と君の頭の中で独立につくられた理論がほぼ一致したということだ。理論の継承ということはそういうことだ。

(P172・太字箇所は原文ママ

もう一つ。上記とつながる内容で、これは西條さんの発言。

西條: (略)科学は進歩しますけど、哲学はあまり進歩しないじゃないですか。百年、二百年前、いや紀元前の人の話がそのままいまでも通用する部分もあって。これってなぜかなと思っていたのですが、それは人間が死ぬからですね。認識の次元が上がっていくにはある程度の時間や経験が必要ですよね。経験がともなわないと、いくらよい哲学書を読んでもまったく意味がわからないじゃないですか。いろいろな経験を重ねたり、問題意識が育ったときに優れた哲学書にインスピレーションを受けたりしながら、認識の次元がある程度上がっていくとしても、結局その人は死んじゃいますよね。もちろん、先人が本を残したりしてくれると参考になるのでありがたいんですけど、後続の人も、その本を読んでも最初は意味がわからないですから、いろいろ経験して、それである時点で読んだときに、「なるほどいいことを言ってくれているな」と、そうやってまた認識の階段を上っていってもやはり死にます。基本的に、哲学って、自分の中で構築していくものなので、なかなか積み上がりにくいですよね。

(P135・同上)

これを受けての池田先生の返し、およびその後の話もなかなか面白いのだけど、長くなって転写が大変なので割愛。

いずれにしても上記の二つの話は今でもちょくちょく頭に浮かぶ。「これってあの話と同じだなー」とよく思う。

*1:記憶がおぼろげだったので、当時の書き込み等を確認しようと久しぶりにmixiにログインしたけど、見つけることができなかった。