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言葉をゴルフにたとえると

異なる人間同士が意思を伝え合おうとした場合、言葉を共通の道具として使用することには必然性がある。

それを使わずにがっちり握手して見つめ合って、何かが伝わったかのように想像し合うことも不可能ではないが、同時期に同所にいなければ実現不可能であるという点においてそれも使いづらい方法であるとは言える。

また見つめ合ったりうなずき合ったりして得られる合意はどこまでも抽象的なもので、「今いる場所から一番近いコンビニまでの道順を聞きたい」などという時にはやはり言葉が有用である。

さらには言葉を文字に置き換えることで、時間的にも空間的にも遠く離れた誰かと交信することが可能になる。すでに死んだ人が書き残したものを読む時には相互通信を行えないが、情報を受け止めた誰かがまた別の誰かに対してその情報を送り出すことができるという意味では、継続的で有機的で建設的な側面をそれは持つと言えるだろう。

さてそのような有用な「言葉」ではあるが、負の側面も少なくはない。世界に生じている争いの発火剤にして燃料のいくらかは言葉であるとも考えられる。そしてそのようになる理由の一つに、言葉の性質が今ひとつ正しい形で理解されていないことがあるのではないかとも思う。

たとえば言葉で「犬」と言ったときに、それを聞いた(読んだ)人々の頭に浮かぶ犬はその人々の数だけあるはずである。
ある人の頭には柴犬が浮かび、そうでない誰かの頭にはシェパードが浮かぶかもしれない。犬種が同じでも大きさや色、座っているのか立っているのか、その表情までを含めたらその「犬」が完全に一致することはない。

一方で「犬」を想像しようというときに「ワニ」を思い浮かべる人はいない。つまり「犬」という言葉がこのときに何をやっているのかというと、「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない、よく犬と呼ばれるようなそれ」という曖昧な領域を示しており、さらに言えば、この時により重要なことは「言葉がその曖昧な領域を指し示している」ということではなく、その前の「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない」ということの方である。

これを言い直すと、言葉がやっているのは「何らかの対象そのものを示す」ことではなく、「いろいろな対象が考えられる中で、大体どの方向を見るべきかを示す」ことであり、つまり言葉が示しているのは「特定の点や領域」ではなく、「大体あっちの方」というような『方向』である。

言葉が特定の対象と1対1の関係にあると考えてしまうと、上記の「犬」がそうであったように、実際には異なる人間同士の頭の中で一つの言葉から別の対象が生成されているため、それを一致した物として扱わなければならず、いろいろと問題が生じやすい。

しかしそうではなく、言葉はたんに「大体あっちの方」という、あるいは「少なくとも他のアサッテな方向ではないコチラの方向」という、『方向』を示すものに過ぎないという前提を持つことができれば、我々はより厳密に特定の対象を共有しようと思ったときに、もっと深く言葉や対話を重ねていこうと思えてもう少し平和な世界を見ることができるかもしれない。

この経過のありようは、ゴルフに似ている。狙うピンは一つに定められているが、1回で言い当てることは不可能に近い。ティーショットから何打も打って少しずつ目的に近づいて、グリーン上でもまだ何度もカップの脇を右へ左へと行き過ぎながら、徐々に「もともと言いたかったのはどういうことか」という対象を追い詰めていくことは我々が言葉を通してやっていることに近い。

最初の大きな(そして最もピンから遠い)一打目の落ちた箇所だけを見て「ああこの人は、こういうことが言いたいのか」と思ってしまうことは、思った側にも言葉を放った側にも不幸である。
そうではなく、その発言者が「どの場所から・どの方向に向けて・どの程度の力加減で」その言葉を放ったのかを見なければならない。それを見ることにより、「実際にボールが落ちたのはここだけれど、本当に言いたかったのはこういうことかな」と想像しやすくなる。

人は多くの場合、それを自然にやっているだろうが、ときに行き違いが起きるのは、そうした想像が成されていない、ボールが落ちた場所だけを問題にして対話をしているからではないかと感じる。

ぼくはこのように書く文章の多くが長くなる傾向にあるが、それは元々言いたかったことをなるべく厳密に指し示すために、言葉という矢印の大きいものや小さいもの、北を向いているものや東を向いているものをいくつも様々に組み合わせながら書いているからで、これはパー5のホールで何十打も費やしてしまう趣味のゴルファーの姿を彷彿させる。

プロの文章家というのはこれをより短く、適度な打数でまとめられる人のことで、たとえば1行で勝負するコピーライターなどはつねにホールインワンを狙っているとも言える。

いわゆる推敲という作業は、最初は50打もかかったパー5のホールを何度もやり直すことで、いかに少ない打数で、他の人からも追いやすい行程を通してカップインできるかを突き詰めていく作業であり、これをしていない文章は途中で森に入ったり池に入ったり逆向きに進んだり隣のホールに行ったりと複雑怪奇な行程をすべて辿ってみせるから、傍から見ると「そもそも何を言いたいのかわからない」文章ということになる。

しかしここで言いたいことは、そのようなわかりづらい文章が悪いということではなく、順番としてはつねに「わかりづらい長い文章(多くの打数を費やしたもの)」→「わかりやすい簡潔な文章(短い打数でまとめたもの)」という不可逆の流れがあるということで、つねに初めから短い文章で言いたいことを言えるという人はいない。

にもかかわらず、世間では時折、人はやろうと思えば初めから簡潔な言葉の表現で元々言いたかったことを言い当てられると考えられているふしがあると思われる。「それは単に人間個別の能力の問題であって、本来ある程度の知識や経験があればそれが出来るのは当然」という前提が少なからず浸透しているように思われる。

そしてまた、そのことが理由になって、実際には「大体の方向」を示しているに過ぎない言葉を取り上げては「誰々はこんなことを言っていた」と、文脈(どの場所からどのぐらいの力でどの方向に向けて放った一打だったのかという前提的な情報)を無視した争いのたぐいが起きがちであるように思う。

実際には言葉は、しつこく使い込めばそれなりに役立つ道具ではあるが、適当に触ってもなかなか期待どおりには働かない、思い通りには動作してくれない道具であるということがもう少し広く共有されていると、今生じているいくつかの不一致も多少は軽減されるのではないかと思うのだけど。