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憎しみ合う原理とその対策

人が人を憎むと、憎まれた側もそれを踏み台にして相手をつい憎んでしまう。
ここで言う「憎む」とは誰か他人のことを自分の「敵」であると認定し、「こいつなら叩いてヨシ!」みたいに扱うということである。

このような現象に共通するのは、「こいつは敵だ」と認定した相手を、自分とはけっして同じものではない、まったく別の存在であり、自分が属している居心地の良い共同体から叩き出さなければならない異物として扱うということである。

逆に言うと、相手の中に自分と共通したものを感じ取り、相手を「自分とは切り離された異物」として感じられないときには、その人を敵とはみなさないし、憎む気持ちも消えている。

それはある意味で想像力の問題とも言えるが、想像力なんて意識的に起動できるものではそうそうなく、むしろ天気をはじめとする自然現象のように、こちらの都合に関わりなく勝手に動いているものだとも思われるから、「想像力を駆使して」その困難を乗り切ろうなどという楽観的なこともなかなか言えない。

普段から触れている環境の中に、「相手の中にある自分のような部分」や、「自分の中にある相手のような部分」を見つける習慣がまぎれ込んでいれば良いのかもしれないが、どういう方法でそれを成せるのかはわからない。

憎しみ合いの現象を目にするたびに、ああこの人たちは、相手を自分とはまったく別の生命体であり、自分自身とは微塵の共通項もない異物だと認識している、あるいは認識したいと思っているのだなと感じる。ぼくの中にもそれはあるが、そんなときには腰の重い想像力をなだめすかして立ち上げさせなくてはならないのかなとも思う。

解決策のひとつには、憧れという気持ちを利用する方法がある。
あの人のようになりたい、あのような生活をしたい、あのような風景を見たい、とかなんとか。もしも憎しみ合いからある程度離れた場所に、そういった憧れの対象があったなら、短い人生を同じ人間同士の叩きつぶし合いで満たすことを避けることもできるかもしれない。

その「憧れ」というひとつの策を、逆方向から悪用することもできるが、そもそも生というものがつねに死とセットで在るように、逆方向からの作用を完全に打ち消すことなどできないのだから、問題は「どの程度それと適当な距離をとりながら求める生を果たしていけるか」ということで、それが上手くできたらいいのだけど、と思う。