読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

103

かつては絵を描いていた(5)

フジロックのオレンジコート・ステージに行ったのは前日にそこで見た「勝手にしやがれ」というバンドがすごく良かったからで、今日はそこで何をやってるかな、と興味が向いたからだったけど、行ってみるとまだ次にやるバンドのサウンドチェック中で、大所帯のメンバーがすでにステージ上には居たけれど、パフォーマンスが始まるまでにはまだしばらくかかりそうだった。

ぼくはそのまま「じゃあ次のステージに」と思ってその場を離れかけたけど、どうもステージ中央でふらふらとしている男性が気になって、何となく移動しきれずにいた。
男性はまだサウンドチェックの途中なのにひっきりなしに観客に向かってマイクで何かをしゃべりかけては、途中でそれをやめてけらけら笑ったりしていて、客のほうもそれを楽しんでいるというか、しょうがねえなーみたいな感じで野次ったりただ見ていたりしているようだった。

男性は客と話していないときは急にリハーサルのようなことを始めたりもして、それに合わせてバンドもバッと音を出したりするのだけれど、イントロからしばらく演奏するとフゥッとやめてまたしばらくざわざわと、誰もよくはわかってはいない何かをみんなでただ待っているだけ、みたいな時間に逆戻りしてそれが何度もくり返された。

そもそも彼らのスタート時間はすでに回っているのに、いつまでもサウンドチェックだかリハーサルだか雑談だかわからない時が過ぎていく、その効率の悪さというか「ゴドーを待ちながら」的なじりじりする状況を半ば不快に味わいながら、それにしてもなんでこの人は、中心メンバーであるらしいにもかかわらず演奏中はずっと客に背を向けているのだろう、ということを不思議に思っていた。

通常バンドの中心メンバーというのは客席の方を向いて客からのエネルギーを一身に受けとめ、跳ね返し、それをくり返す中で何かを生み出していく、あるいはそうしているように見せかけていくことが役割であるはずだが、その人はそのように強烈なカリスマ性を発揮するとかいうこともなく、いつの間にかそこにまぎれ込んでしまったトランプのジョーカーのような風合いで、ただ場を撹乱しているだけのように見えた。

とくに理解できなかったのは、いわゆるロックスター的ではないそのあり方を客が普通に受け入れているらしいということで、ぼくには彼の魅力がすぐにはわからなかったけれど、客が彼のどこに魅力を感じているのか、という点には興味を惹かれたし、そのわからなさには魅力を感じていたと言えるかもしれない。

そのまましばらく演奏が始まるのを待っていたが、結局いくら経っても本番は始まらず、また時々鳴らされる一部のフレーズも自分の趣味の範疇なのかどうか判断がつかなかったから、ぼくは本来の彼らのパフォーマンスを見る前に別の場所へ移動した。

苗場から東京へ戻って何日かしたとき、吉祥寺のタワーレコードに入ったらそのバンドの2ndアルバムが売っていて、手書きのポップには「鬼才・菊地成孔がどうしたこうした」と書かれていた。
「菊地成」の後をどう読めばいいのかはわからなかったが、それがあのフジロックで見た奇妙なバンドの新譜であることはわかったし、彼と彼のバンド名を覚えることはできた。

家に帰ってインターネットを使い、彼の名前で検索をしてみた。ぼくがインターネットに繋がったのはその数ヶ月前の5月頃、父が使っていたVAIOをもう使わないからと譲ってくれたからで、「お前もこういうの、そろそろわかっといた方がいいだろ」と言われたのだったが、そのときにはとくに興味もなくて、というか回線を繋げたりするのがあまりにも大変でしばらく放置していたのだが、それもようやく「やろうと思えば繋げられる。検索もできる」みたいになったのでそれを使ってみたのだった。

インターネットを使い始めた最初の頃というのは「何でもできる、どこにでもアクセスできる」みたいな広大な希望に満ちた未来が待っているように思われたものの、いざWindowsを起動してみると「そもそも俺、何が好きなんだっけ?」という難問にぶつかって、結局何もしないでVAIOのフタを閉じる、みたいなことが何度もあった。

この時にはようやくその「調べたいこと」ができたわけで、そうして辿りついた彼のサイトには日記が掲載されていて、白と黒と膨大なテキストと奇妙な句読点とで構成されたそのWebサイトを訪問することが数少ないネットの日課になった。

それに前後して、ぼくは大学の同級生の一人にHTMLの書き方を教えてもらって、自分の日記をインターネットに公開し始めた。
教えてくれたのはWebの会社でバイトをしていた友達で、彼女はスケルトンのiMacを使って自分のWebサイトを公開してもいた。

たぶん最初から「HTMLを教えてもらいたい」と頼んだのではなくて、「自分のホームページを作りたい」とか何とか言ったのではなかったか。それはぼくからしたらものすごく恥ずかしい告白のようだったが、それを聞いた彼女は手元にあったチラシの裏にペンで基本的なHTMLタグをいくつか書きながら、その構造を簡単に解説し、どういう会社とどういう契約をすればそれが公開できるか、といったことまで教えてくれた。

ぼくが彼女にそれを教えてもらった場所は今で言うシェアハウスのようなところで、住んでいるのは皆ぼくの同級生だった。メンバーは3〜4人で、みな油絵学科を卒業し、中にはまだ大学院に通っている人もいたから、アトリエのスペースを確保できて、家賃が折半できるその家は誰にとっても都合が良かった。

「そのホームページとかいうのを作って、それでどうしたいの?」なんてもし質問されていたら何も答えられなかったはずだが、実際に聞かれたかどうか、覚えていない。
ただぼくはとにかくそれを作って、何でもいいから思ったことを書いて、それを自分の痕跡としてネットに残したいとは思っていて、それを初めてやったのが2003年の8月だった。

最初はレンタルサーバーの会社みたいなところと契約して3ヶ月ぐらい試していたけど、その内に自分のやりたいことはジオシティーズという無料サービスを使えば充分できるということがわかり、そこは解約してジオシティーズ手書きのHTMLのサイトを公開するようになった。

反響があってもなくても、考えたことを「自分の知らない誰かが見るかもしれないどこか」に公開できるということはそれだけで心愉しいことだった。イタリアンレストランのバイトに行く直前までそれをやって、終わってからもそれをやって、それを何日も続けた。

2003年のインターネットは菊地成孔よしもとばなな高山なおみの日記を毎日のように読み、その合間に自分の日記を書いた。

2004年の1月にいつものように菊地さんの日記を読んでいたら、それまでも時々そこで話題になっていた「ペンギン音楽大学」という彼の音楽私塾の生徒が募集されていた。

ペンギン音楽大学」には音楽理論科とサックス科の2つがあって、音楽理論の方には初級コースがあり、そこに入るために必要なものはペンと紙だけで経験は不要だった。
定員があり、応募するためにはいろいろと細かい質問に答えなければならなかったが、僕には資格があったから(つまり誰にでもそれはあった)、とりあえずすべて書き込んでメールで申し込んだ。

そのときに初めて知った重要な知見は、「もしもその人の近くに合法的にずっと居たいと思ったら、生徒になればいい」ということだった。ぼくは菊地さんの大ファンというのでもストーカー的にその私生活を知りたいと思っていたのでもなかったけど、彼が普段考えていることとか、何を見て何を読んで何を言っているか、とかそういうことを知りたいと思っていた。でも普通ならそんな機会はなくて、せいぜいライブに通うとかあるいはサイン会とかトークショーがあればそれを近くで聞くだとか(そのためには早い時間から場所をとる必要もある)しかないわけだけど、そうしてようやく手に入れたチャンスはほんの数秒から数分に過ぎなくて、そんな時間でわかることなんかそうそうない。

しかしひとたび「生徒」になったなら、ぼくは彼の「お客さん」になり、もちろん客だからといって傲慢な態度や非常識な接し方が許されるわけではないけれど、少なくともそれまで常識的に考えられたステージの上と下、あるいは「1対他」のような非対称的な関係ではなく、ある意味で対等な関係になることができ、それをある程度の時間とお金で手にすることができた。

アーティストを支えるファンはたしかに「客」で、有料の学校(や私塾)における生徒もたしかに「客」だが、そこには深く大きな違いがあって、これまでぼくはそのことをあまりうまく言語化できずに(せずに)いたが、今こうして書きながら考えると、前者における客(ファン)はアーティストにとって必須の存在ではないが、後者の関係における客(生徒)は必須であるとは言えるかもしれない。
アーティストにとってのファンが無価値であるということではもちろんないが、アーティストの創作力というものがファンの存在を前提としたものではないのに対し、教師と生徒というのはそもそもの成り立ちからしてその「関係」が前提にあり、どちらが欠けてもそれは成り立たなくなってしまう。

その時点でぼくがそこまで考えていたのか、といえばまったくそんなことはなかったが、このチャンスの波を逃しちゃいけない、みたいなことはうっすら思ったんじゃないかとは思う。

と言いつつも、実際に申し込むまでかなり悩んだことは覚えていて、なぜならそこにはチャンスにくっついた巨大なリスク(というか危険性)もあったからだ。
菊地さんはぼくにとってネットの「向こう側」の人であり、フジロックのステージの「上の人」であり、ぼくはそのときステージを「下から見る人」であり、ネットの「こちら側」にいた。
ぼくは「こちら側」にいるうちは自分だけのルールや判断材料、判断力をもってあれもこれも好きなようにさばいていればよかったが、向こう側にアクセスするということは、向こう側の価値観で自分自身をジャッジしなければならなくなるかもしれず、言い換えればもう「安全ではなくなる」可能性があった。
これまでとは別の、もうオレオレルールの中だけでは過ごせないかもしれないという不安は強烈で、わかりやすく言えばまず何よりも「入学を断られる可能性」を受け入れなければならなかった。

もし応募しても、不合格だと言われたらどうしよう? という恐怖は根深くて、それをグッと乗り超えるまでには少なからぬ時間を要した。

ぼくが使っていたネットの回線はPHSのカードみたいなものをVAIOに突き刺す形式のやつで、いわゆる無線LANとかいうものでもなければ、もちろん電話線から直接コードを繋げるようなものでもなくて、だからその回線の(というか電波の)調子がおかしければまともにブラウザを開くこともできなかったが、まさにその応募メールを送ろう、と心を決めたときに家の近くの電信柱の工事が始まり、家からネットが繋がらなくなったからぼくはVAIOを持って近くの神社の境内まで行って、石段に腰を下ろしてそこで菊地さん宛のメールを書いた。

年末年始に大雪が降って、神社の周りにはまだ雪がたくさん残っていたし、その日もすごく寒かったからコートを着込んで手袋をはめて、キーボードを打つ瞬間だけ手袋を外した。
恐れていたことだが、掃除に回ってきた宮司さんに見つかって、しかし知り合いではあったから「こんにちは」とだけ言って、書きかけの部分を仕上げて送信した。

家に戻ってしばらくすると回線が復調し、ぼくが送信してから50分後に菊地さんから返信があって、入学が許可されていた。