読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

103

かつては絵を描いていた(2)

大学に入ると世界は灰色になった。

ムサビを選んだ一番の理由は、構内の敷地や建物がかもす開放感にあったけど、それは高校生の頃に訪れた同校の芸術祭の様子がそういう印象をぼくに与えたからで、実際にそこの学生になってみると、日々の時間にそのとき感じたような雰囲気や自由を味わうことはほとんどなかった。

4年間を油絵学科で過ごした中で、これという大きなトピックはほとんどなかったけど、それでも一つ挙げられるとしたら画家の加藤泉さん(男性)と知り会えたことだろうか。

加藤さんは僕が入学するのと入れ違いのように卒業していたから、学内で会うことはなかったけど、あるとき、それは3年生の頃だったか、いわゆるゼミの教授であるところの赤塚裕二さんから声をかけられて、構内で配る機関紙の編集に手を貸してくれないかと言われ、具体的には「卒業生訪問インタビュー」というコーナーがあるので、学生代表としてその取材に行ってほしいんだけど、と言われた。

赤塚先生は油絵学科の教授だったけど、立場が偉いのか、いろいろ頼まれやすいのか、そうした機関紙の編集などにも関わっていたらしくて、その取材者を探す過程でなぜかぼくに目をつけたようだった。(そういえばその理由は聞かなかった)

「卒業生訪問インタビュー」というコーナーは、ムサビを卒業して活躍している卒業生を在校生が訪問するという文字通りの企画で、一人のインタビュー対象者につき二人の異なる学科の学生がペアを組んで話を聞きにいく、という構成だった。
ぼくはサラさんというカナダから来た留学生とそれをやることになり(彼女の所属学科は忘れてしまった)、取材当日には機関紙の編集スタッフである柴田さん(女性)と3人で、青梅街道を走るバスに乗ってムサビから15分ぐらい走ったところにある加藤さんの自宅兼アトリエにお邪魔した。

サラさんとぼくはその数日前に神楽坂の喫茶店で打ち合わせを行い、どのような質問をするかまとめて柴田さんに渡しておいた。柴田さんはFAXで加藤さんにその内容を送っていて、だから質問と回答はそれなりにスムーズに進んだように思う。
加藤さんは事前に質問を送っておいたことについて、「いろいろ取材を受けてきたけど、わざわざそんなことやる人いなかったよ」と、たぶん良い意味で言った。

サラさんの質問の中には「日本の若者がIターンやJターンと言われる、田舎に帰って生活を送るケースが増えているが、それについてどう思うか?」というものがあった。ぼくはとくにそういったことに関心はなかったけど、じゃあ自分がどんな質問を考えたのかというと、まったく覚えていない。

僕と加藤さんがそのときにどういうやり取りをしたか、ということも覚えていないけど、その後も加藤さんとの付き合いは続いた。不思議なことに、ぼくは加藤さんと電話番号や住所を交換した記憶がないのだけど、加藤さんが個展をするときにはDM(ダイレクトメール)がアパートに届くようになった。

ぼくはいつも暇だったし、自分がやりたいことを知らなかったから、DMが届いたら大抵それに行った。

大学を卒業して1ヶ月後、就職ができなくてボーッとしているときにも加藤さんからDMが来て、ぼくは京橋の個展会場に行った。
お客さんは他にいなかったか、いても1〜2人ぐらいで、ドローイングと小さな彫刻(のような何か)が展示された会場の端でぼくたちは少ししゃべった。5月の初めの、暑いような涼しいような中性的な季節で、たしか窓を開け放したまま交わした会話のひとつに、「いま何してるの?」という加藤さんの質問があり、「何もしてないです(笑)」というぼくの答えがあり、「じゃあバイトする? 俺いまペンキ塗りの仕事やってるんだけど、やる気あるなら親方に話しておくよ」と言われたので、「ああ、やります(笑)」と二つ返事をしたのだった。

加藤さんはぼくを見送りながら、(と言っても小さな会場だったから、表に向けて2〜3歩進んだらもう見送りなのだが)「最近はなかなかフラフラしてる若いやつがいないんだよ。親方から電話させるから」と言った。
ペンキ塗りのアルバイトは不定期で、しかしやるときには何日か連続で現場に出なければならないから、「フラフラした若いやつ」じゃないと頼めない、みたいな話だった。

同じ月の終わり頃からぼくはペンキ塗りのバイトを始めて、最初の現場は舞浜駅に新しくできる、ディズニーランドと結びついた「イクスピアリ」というショッピングモールだった。(その頃はまだディズニーシーもなく、その後にディズニーシーも塗りにいった)

エントランスに近い、モニュメント的な巨大な青い樹木(の擬木)を塗るのがその仕事で、ヘルメットをかぶり、安全帯を腰に巻いて、朝礼に出て、日が暮れるまで作業をした。
すべて終わって、道具を現場からけっこう離れた大きな駐車場の、親方のパジェロに積み終わると、いつ買ってきたのか、親方が4〜5人の職人みんなに冷たい缶コーヒーを渡して、その場で海風を浴びながら飲んだ。

知らない人たちが忙しく立ち働く現場で、目が回る思いをしながら何ヶ月か過ぎた頃、イクスピアリの広大な敷地の片隅に見覚えのある男子がいて、顔をじっと見たら美術予備校の同級生の一人だった。
彼とぼくは、前に書いた、トップで芸大に入った男子と3人でよくつるんでいた。彼は現役でタマビに入ってしまい、芸大の子は1浪で芸大に入り、ぼくは2浪したから、それぞれの環境はバラバラだったけど、それでもぼくが大学2年になるぐらいまでは時々会っていて、八王子の彼の家に泊まりに行ったこともあった。
彼はむちゃくちゃ美形で、芸大の子は加瀬亮のような男前だったので、それに挟まれるとなんだかぼくは捕獲された宇宙人のようだったが、そういう役割を楽しくも感じていた。

その彼に舞浜の工事現場でいきなり会って、ぼくは「うわ〜あるのかこんなこと! 世界すごい! 天文学的確率!!」とあまりの奇遇に軽くパニックに陥っていたが、彼の方はさほど驚いたふうでもなく、「ああ」みたいな感じだった。
「今何してるの?(ペンキ塗り以外に)」と言いながら互いの連絡先を交換し、彼はバンドでギターを弾いていたから、ぼくはそれを見に行って、いつの間にかドラムを叩くことになっていたけど、それはまた別の話だ。

大学の頃に話を戻すと、赤塚先生がぼくのいたアトリエに入ってきたとき、ぼくは2〜3人の同級生と話していたかもしれない。ぼくはカラシ色の誰がどう見ても大きすぎる、体に合わないツナギを着ていて、外はもう暗くなっていた。
先生はぼくを手招きして、何か重大な秘密を打ち明けるかのように、「ちょっと頼みたいことがあるんだけどさ……」と、その依頼をしたのだった。

今はどうだか知らないが、ムサビの油絵学科では1〜2年の頃は特定の教授についたりせず、数ヶ月単位で、教授陣が一人一つずつ用意した課題の中から好きなものを選び、それをやっていた。
制作は通常アトリエで行われ、教授が何日かに一度、それを見に回ってくる。そこであてどもない会話を交わし、講評の日には皆の作品を並べて、あれこれと議論や評価が行われた。それを2年間くり返して、3年生からはその教授陣の中から好きな先生を選んで、そこで残りの2年間を過ごすことになっていた。

ぼくは1〜2年生の頃に何度か赤塚先生の課題を選んで、先生の作品はよく知らなかったけど、話した印象で「いい人だな」と思ったので先生を選んだ。よくわからないが、肌が合うと感じたのだった。

加藤泉さんは赤塚先生の生徒ではなかったらしいのだけど、二人は親しくしていて、それで先生は卒業生インタビューの対象に加藤さんを選び、その取材者にぼくを選んだようだった。

加藤さんを訪問したその家に、やがてぼくは住むようになった。
アトリエと自宅を兼ねていたのが手狭になったから、近くに生活用の家を別に借りて、アトリエだけ継続して使いたいのだけど、その空いたスペースに入らないか? という話だった。まだ持ったばかりの携帯に急にそんな電話がかかってきて、ボーッとした頭のまま、以前にペンキ塗りのアルバイトに誘われたときのように「いいですね(笑)」と二つ返事で答えた。

想像もつかない、未知の世界への誘いという点でそれらは似ていた。
そしてぼくは何の確証もないままそこに飛び込んだ。