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責任をとってやめる

「責任をとってやめる」という日本語はなんだか変だ。「責任をとる」ということと「やめる」ということは、関係はあるが必ずしも因果関係を持つわけではないから、言葉の構造上は「ゴハンを食べて空腹を満たす」のような因果関係を持った型ではなく、「歌って踊る」のような順列的(ないし並列的)な型と同型だ。しかしそうであるにもかかわらず、こういう発言をする人はきっと前者の型を念頭に置いて言っているだろうから、その前提で聞くと頭が混乱する。

常識的に解釈すれば、たぶんそれは「責任をとる方法のひとつとして、現在の職を辞する(ことを選ぶ)」という意味になるのだろうが、実際にそういうことを言って辞めていく人を見ると、「辞めれば責任をとったことになるから辞める。そして責任をとった以上、今後私がこの件に関して責められる理由もなくなる」と、言っているように思われてならない。
本人がどう思っているかということに関わらず、客観的に見てそのように受け取ることができてしまう状況が生じている。

このときの問題は、おそらく「責任をとる」という表現の意味するところがボンヤリしている点にある。
また、「やめる」ということがその後に何をもたらすのか、という点が曖昧であることにも問題があるかもしれない。

「責任をとる」という行為は、僕の考えでは、「損失をこうむる前の状態まで事態を回復させること(またはそのための道筋を立てること)」である。
たとえば、自分のミスによって所属するチームがいくらかの損金を出したなら、その額を自ら返済する。
あるいは客に迷惑をかけたサービス提供者が、料金を減額または無料にする。
あるいはチームに貢献できなかった野球選手が、レギュラーから降ろされる。

こうしたことを前提として、「辞めることによって責任をとる」という状況が真になるのはどういうケースかと考えると、「自分はその職務に向いていなかったから、その仕事により適した人間に代わってもらうために、自分はその仕事を辞める」ということになるだろうか。

しかしながらこれも、やはり実際に現実で起きている状況を見るかぎり、そのような意味でやめているとは感じづらい場合が多い気はする。単に「辞めることで、もう許してもらえるから」と思ってやめているだけなんじゃないかと思えてならない。

ところで、アメリカのサンディエゴの市長がセクハラの罪に問われ、自らそれを認めながら、でも辞めない、と言っているらしい。これに対して、市民からは「辞めてほしい」という意見が出ているようだ。
セクハラというのはいろいろ難しい問題な気がするので、詳述はしないが、端折って言えばこのようなケースにおいて市長が「辞めること」は「責任をとること」になりえると思う。

同じ「政治家が責任をとってやめる」であっても、それが意味することはまるで違う。

たとえば選挙で負けた政党の政治家が「責任をとってやめる」という言い回しを使ってしまうと、上記のように「責任をとること」イコール「やめること」であるかのような、本来意味されるべき状況から奇妙にすり替わったイメージが根づきやすくなるかもしれない。
しかしもちろん、「職を辞すること」は、「責任をとること」の一部にはなりえても、けっしてそれと同じ意味ではない。

もしも事態を改善(回復)させることを目的として、職を辞するというのであれば、「責任」なんて言葉はじつは不要である。
そもそも責任を負うべきミスをした彼や彼女自身が、その後の自らの行為をもって「責任をとることができた(事態を回復できた)」などと判断することは原理的にできない。その行為が「責任をとる」に値したかどうか、ということはどこまでも客観的に判断すべき(というよりそのようにしか判断できない)ことであるからだ。
「私が辞めることによって事態は改善する」などと当人が言うのは傲慢である。

よって、もしも自分のミスが理由で職を辞さなければならないような状況に置かれた時には、「責任をとるために云々」などという混乱を生じさせやすい表現は禁句として、「私はこの仕事をするのに適した能力を持っていないことが明らかになったから、より適した人間に交代することで事態の改善を図りたい」とでも言えばよい。
どうしても「責任」という言葉を使いたければ、「この引き継ぎを万全に完了させることが、今の私が果たすべき責任である」とでも言えばよい。