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顆粒スープに湯を注ぐ

計画は実行されなければ意味がない、とは簡単には言い切れないが、そう言える面は多くある。「実行されない計画」に良い点があるとすれば、それは計画自体が美しかったり楽しめたりする場合だろう。

計画が実行されると、そのとき初めて無形が有形になる。ゼロがイチになるとでも言えばよいか。
実行されない計画はだから、無形のままの何かだ。

計画は実行されることを前提として生まれるから、たとえば計画を立て終わった、という状況は1本の小説を途中まで読み終えた段階に近い。最後まで読み終えた、と言えるのはだから「実行」されたときに当たるだろう。

他人が何かを作り上げたとき、またはある行動を成し遂げたとき、それを見て「ああ、俺も同じことやろうと思ってたんだよ。忙しくてできなかったけどね」と思うことがある。あるいは「頼んでたあの仕事、どうなった?」と言われ、「ちょうど今やろうと思ってたのに〜」と思うこともある。
百歩譲って本当にそう思っていたのだとしてもなお、それはほとんど何の意味もないことだ。偉大で崇高なのは貴重な時間と体とエネルギーを使って行動するということだから。素晴らしい計画は愚直で言い訳のない具体的な行動と組むことでようやくその真価を発揮する。

「実行」もまた、必ずしもそれ単体で機能するわけではない。野球でエースが投げた速球をバッターが真芯で捉え、快音と共に長打を放ったとしても全力で三塁へ走れば無駄になる。貴重で崇高な行動を何に向けて駆動させるかが重要だ。だから行動もまた計画と組まなければ価値を発揮しづらいだろう。

これは顆粒ダシに湯を注いでインスタントスープを作ることに似ている。顆粒は計画でありアイディアだ。しかしそれだけで味わうことはできない。湯を入れてスープにすることでようやく飲むことができる料理になる。このときの湯は「実行」だ。計画は実行と結びついて初めておいしく味わえる。

ネットの普及により一億総評論家時代とも言われる、あれこれに対して気軽に評価を発信できる状況が生まれた。他人の行動を見て「あれは俺の方が先に考えていたんだ」と言える機会も増えただろう。しかしそれはどれも顆粒ダシのままにすぎない。誰かが湯を注いでスープにしないならそのまま誰にも飲まれず消えていく。
アイディアや計画にそれ自体で価値がないということではない。しかしそれだけではまだ途中だ。