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ここ数日

たぶん、あれだけデカイのはもうナイだろうという希望的予測のもと書いているが、ああ揺れてるな、と思って、ちょっとデカイかも、と思って、たぶんみんなが「あれ、ちょっと変かも」と思ったと思われるのと同じぐらいのタイミングでぼくも異様さに気づかされた。一番異様だったのは音で、しかし地鳴りとかでもなく家の窓やモノが意志を持ったように今までに聞いたことのない音を立てた。もうそこからは完全に想像の範囲を超えているから、一旦いろいろあきらめて、最低限できることをしようと思った(と思う。あとから思えば)。
窓を開けて、玄関を開けて、不安定な場所に置いてあった重いものや割れ物などを安定した場所に置いて、サイフをポケットに入れて、開け放したドアのそばで待機した。揺れはまだ収まっておらず、あとはひたすら収まってくれと祈るのみ。外に飛び出すか、いや外の方があぶないか、と迷ったが迷ってるうちになんとかピークが過ぎた。
余震がまめに続くので、「家やモノをぜんぶ捨てて避難」の覚悟と「一旦休憩」の安心とを何度もくり返し、ほんとうにくたびれた。一回や二回するだけでも重い、そのような判断を連続して何度もするから、一日で何年分も生きた。

何しろ怖いのは、先を読めないことだ。地震には人間の行動にあるような意志がない。意志がないから加減もない。人間でも突発的な感情の奔出で暴力に走るひとが少なくないが、それでも大木をなぎ倒したりビルや家屋を押し流すことはない。つまり「せいぜい行ってここまで」という予測を立てられる。しかし大地震に予測はない。過去のデータや見聞から傾向を知ることはできるが、べつに自然さんという人との取り決めでそうなっているわけではなく、結果的にそうだったというだけだ。意志がないから、どこまで行くのかどこで止めてくれるのかまったく分からない。言葉が通じない。その先のみえなさ、約束のできなさがひたすらおそろしい。(そう考えると、人間関係の厄介なところは、基本的に言葉の通じない相手であっても、「そうは言っても自然さんほど通じないわけではないだろうから」という一縷の希望を想定してしまうことに起因するかもしれない。しかしちょっと粘れば通じるひともいれば、どこまでも自然さんに近いひともいてなかなか難しい)
いま、原発のことで新しいニュースがちょっとずつでてる。これも今までにない例外の連続で、だから個人的にはおそろしい。体が普通にふるえてる。冗談のようだが地震で揺れてるのか怖くて自分が揺れてるのかわからないほどだ。(睡眠不足の可能性もまたある)

恐怖と怒りがうずまくので人が集まるところは見たくないが、重要な情報を逃すのではないかという不安と、この同じ瞬間にみんなはどうしているだろうと思うからTwitterとかfacebookをみる。みると、facebookはほとんど知り合いだけだからいいが、Twitterは強圧的な投稿やRTが多く長くは見ていられない。ぼくが普段もっとも距離を置こう、触れずにいたい、と思う言葉や態度が集中的に降ってくる。これを機にそれに該当するひとをunfollowしたいが数が多いのと他にも諸事情ありどうにもならない。そもそもそんなことしてる時間ももったいない・・
それで基本的には仕事を続けている。考えられるかぎり最も建設的な今すべきことは、普段程度かそれに準じる程度に仕事と体調と気持ちを整え、その上でいつすべてが新たに倒壊しても、また作業の続きができるようにバックアップをとっておくことぐらいだろう。ぼくがいなくなっても続けられるような準備もしておかなければならない。次にすべきはそれかもしれない。前から考えていたが、実行するいい機会ではある。